姫路城
姫路城

[兵庫県][播磨] 兵庫県姫路市本町68


  • 平均評価:★★★★☆ 4.44(1位)
  • 見学時間:2時間5分(2位)
  • 攻城人数:6298(1位)

下山里と上山里下段石垣

いまの姫路城の大半は江戸時代に池田輝政によって修復・拡張されたものですが、それより前の黒田官兵衛や羽柴秀吉時代の遺構も部分的に残っています。

この姫山側にある上山里下段石垣もそのひとつで、羽柴秀吉によって築かれた石垣だと考えられています。

下山里
 この地は、二の丸上山里の下に位置し、西、南側は石垣組みに土塀をめぐらして東方に門を開いていた。
 昭和八年、東北側の崖沿い通路が整備され、昭和三十年までは下山里展望台として市民に親しまれた。
 現在では、この下山里に五輪塔などの仏石が祀られている。これは姫路城の修築工事の際に石垣の中から出てきたものを集めて、五輪の形に積み上げて供養したものである。
 姫山には康治二年(一一四三年)に称名寺が建立され、この地方を治めた豪族や役人の墓が多くあったといわれている。その後、城を築くときに寺を麓に移し、その時の墓石など多くの仏石を石垣に組み込んだといわれている。称名寺は正明寺と改名されて五軒邸に現存する。
 また、五輪塔の前にある石燈籠は、東京都谷中の姫路城主酒井家墓地から平成二年に移したものである。この燈籠は、最後の城主として僅か一年余の在任ではあったが、名君の誉れ高かった酒井忠邦公を惜しみ、旧姫路藩士等三二二人が浄財を寄せて、明治十三年三月、忠邦公の一周忌に公の墓前に建立したものである。
 当会では毎年春、秋の彼岸と旧盆に正明寺住職を招いて、この仏石ゆかりの人をはじめ、築城にかかわった人や藩主、藩士の供養を営んでいる。平成三年三月 姫路城を守る会
上山里下段石垣
 正面の石垣は、上山里下段石垣で、現存する姫路城の石垣のなかでその特徴(※積み方、石材の加工)からみて十六世紀後半の天正期に築かれた石垣、すなわち天正八年(一五八〇)~九年に羽柴秀吉によって築かれた石垣と考えられます。
 羽柴秀吉は、中国(毛利)攻めのため小寺(黒田)官兵衛の姫路城を拠点とし、当時としてはめずらしい三重の天守を持つ新しい城郭を築きました。その後、姫路城は池田氏や本田氏による大改修を経て、大きく進化しました。
 現在の天守は、池田輝政が秀吉の三重天守を撤去して新たに建てたものですが、天守のある姫山には秀吉によって築かれたとみられる石垣が数多く残っており、上山里下段石垣もその一つです。
 当時、秀吉が官兵衛に宛てた書状(※黒田家文書)によると、秀吉は最も頼りとする重臣で地域の事情に精通している官兵衛にも築城を命じており、この石垣も官兵衛が関わった可能性があり、現在の姫路城にも官兵衛時代の名残が存在しています。平成二十五年 姫路市教育委員会
大河ドラマ『軍師官兵衛』の放送にあわせて、黒田官兵衛にゆかりのある石垣としてパネルが新設されていました。
黒田官兵衛ゆかりの石垣(姫路城上山里下段)について
姫路城の石垣
 姫路城の石垣は、羽柴時代、本多時代及び池田時代の築城期の3期とその後の修復された石垣に分けられます。特に、羽柴秀吉が黒田官兵衛にあてた書状によると、当時、秀吉は築城にあたって最も頼りとする重臣であり、地域の事情に精通している黒田官兵衛に普請を命じていることから、現存している羽柴期の石垣は、官兵衛ゆかりの石垣と考えられます。

上山里下段石垣
 上山里下段石垣は、現存する姫路城の石垣のなかでその特徴(※積み方、石材の加工等)からみて16世紀後半の天正期に築かれた石垣、すなわち天正8〜9年(1580〜81年)に羽柴秀吉による築城の際に築かれたと考えられています。羽柴秀吉は、中国攻めの拠点として黒田官兵衛から譲り受けた姫路城を改修し、その当時にあっては目新しい3重の天守を持った城を築いており、姫路城の城郭は、その後池田氏→本多氏による築城を経て完成します。

特徴(天正・慶長初期の石垣の特徴)
  1. 野面石(自然石)を使用。
  2. 積み方は「布積み崩し」(野面の横目地が部分的に走る、古式方式)。
  3. 隅角部稜線が不揃い。
  4. 石垣が低く、二段石垣で補う。
  5. 間詰め石は主に河原石を使用。
  6. 転用材を多用するとともに、刻印がない。
特別史跡姫路城跡石垣について
 上山里下段の石垣は天正8年(1580)羽柴秀吉の姫路城改築により積まれたと推定されるI期の古式な石垣です。信長の安土城とほぼ同時期のもので、ほとんど加工しない凝灰岩(ぎょうかいがん)やチャートなどの石材を使用した野面積(のづらづみ)と呼ばれる積み方です。

姫路城跡石垣の変遷
姫路城跡の石垣は、羽柴秀吉の築城から明治時代以後の修理によるものまで、5期に区分されます。
I期
羽柴秀吉改築以後の豊臣時代のもの。野面積で隅角部の算木積(さんぎづみ)が未発達。墓石や古墳の石棺などを再利用した転用石(てんようせき)が多く見られる。
II期
関ヶ原合戦の勝利で姫路へ入った池田輝政が慶長6年(1601)から築いた。隅角部に長方形の石を長短組み合わせた算木積がみられ、「扇の勾配」と呼ばれるカーブを描く。
III期
元和4年(1618)頃に本多忠政が西の丸を設けるのに合わせて築いた石垣。
IV期
江戸時代の補強・修理に伴う石垣。
V期
明治時代以降の修理石垣。
   

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