佐貫城跡 富津市佐貫字城跡一二二五他 佐貫城は、室町時代後期から明治時代初頭まで城主が替わりながら存続した城である。佐貫城の築造年代については諸説があるが、真里谷武田氏が十六世紀初頭に築いたと言われ、武田信嗣が永正四年(一五〇七)に鶴峯八幡神社を再興していることが、その根拠の一つとされている。 その後、天文年間(一五三二~一五五五)には、武田氏との争いに勝った里見氏の居城となり、永禄十年(一五六七)の三舟山合戦では、里見義弘がこの城を本拠地として北条軍に勝利した。次いでその子梅王丸が居城したが、徳川家康の関東入部に伴って、里見氏は安房一国の支配に後退し、天正十八年(一五九〇)に徳川家臣の内藤家長が城主となった。家長は二万石を与えられて佐貫藩の下地を作ったが、関ヶ原合戦の直前に戦死、次いでその子政長が元和八年(一六二ニ)まで在城した。 内藤氏の後は、松平忠重(桜井松平氏)が寛永十年(一六三三)まで、寛永十六年(一六三九)から松平勝隆・重治(能見松平氏)と続き、貞享元年(一六八四)に重治は所領を没収された。元禄三年(一六九〇)から元禄七年(一六九四)まで柳沢吉保がこの地方を治め、その後十六年間ほどは幕府代官・旗本による統治となった。 宝永七年(一七一〇)、阿部正鎮(一万六千石)が入封し、以後九代正恒まで百六十年にわたって阿部氏が城主となっていたが、明治四年(一八七一)の廃藩置県によって廃城となった。 平成三十年十一月十五日 富津市教育委員会
(案内板) 佐貫城跡 佐貫城(亀城)は室町時代にさかのぼり文安年間に長尾氏、応永年間に武田氏の築城説ありその後里見、武田、朝倉、加藤、大河内の諸氏城主となったといわれる 天正年間 内藤家長、同政長 元和年間 松平忠重 寛永 寛文年間 松平勝隆、同重治 一時廃城 元録年間 柳沢保明 一時魔城 宝永七年五月 阿部正鎮 三河屋城より移り(一万六千石)それより正興、正賀、正實、正簡、正高、正身の居城たり八代正恒時 明治維新によって廃城(明治四年五月)となる 昭和六十一年六月 亀城連 平成八年十月吉日 寄贈 阿部正保 平成二十二年三月吉日 復刻 佐貫まちづくりいしずえ研究会
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