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毘沙門天さんのタイムライン

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

本丸にある案内板(絵図)
本丸にある案内板(絵図)

上総大多喜城絵図
上総大多喜城は、初代城主本多忠勝によって築かれ、西から東に張り出す丘陵を利用し、本丸・二の丸・三の丸を
配置し、西は尾根を切る空堀、南は夷隅川に落込む急崖、東と北は水堀という要害堅固の城です。
この城絵図は明治元年(1868)、最後の城主松平正質の時、作図されたものです。

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

土塀(本丸東側)
土塀(本丸東側)

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

二之丸公園
二之丸公園

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

天守(南東から)
天守(南東から)

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

天守(南西から)
天守(南西から)

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天守(北西から)
天守(北西から)

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

空堀
空堀

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

案内板(大多喜城分館)
案内板(大多喜城分館)

(案内板右側)大多喜城の歴史
上総大多喜城は、戦国時代に築かれ、小田原北条氏の滅亡に伴い、徳川四天王の一人である本多忠勝がこの地に十万石で封じられました。
城主は、本多氏三代のあと、阿部氏等の譜代大名が入りましたが、元禄16年(1703)の松平氏の入城以降は9代続き、最後の城主松平正質の代に明治維新を迎えました。
『大多喜城地之絵図」
元大多喜城主大河内松平家に伝来した絵図で元禄年間に描かれたものと推定される。

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

大多喜水道跡(トンネル)
大多喜水道跡(トンネル)

(案内板)大多喜水道
城下町大多喜は、昔から良い飲み水に恵まれず、人々の苦労は絶えませんでした。
最後の城主である松平(大河内)正質の頃ようやく水道の工事が具体化し、明治二年(一八六九)十一月に工事を始め、翌明治三年五月に完成しました。
この水道によって、城下二百戸が潤い、二十ヘクタールの水田の灌漑が行われました。
水源 ここから西へ約二キロの水流
全長 約五・八キロ(内約四キロはトンネル)
責任者 柳原 小高半左衛門
工事 上原 三上七五郎 小苗 高橋四郎左衛門

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

石碑(大多喜水道跡付近)
石碑(大多喜水道跡付近)

昭和五十年七月吉日

毘沙門天さん が  葛西城(東京都葛飾区) を「行きたいお城」に登録しました(2024-05-02)

毘沙門天さん が  館山城(千葉県館山市) の写真をアップしました(2024-04-30)

館山城下(天守北側から)
館山城下(天守北側から)

毘沙門天さん が  館山城(千葉県館山市) の写真をアップしました(2024-04-30)

本郭にある石碑(里見城跡)
本郭にある石碑(里見城跡)

毘沙門天さん が  館山城(千葉県館山市) の写真をアップしました(2024-04-30)

天守(南東から)
天守(南東から)

毘沙門天さん が  館山城(千葉県館山市) の写真をアップしました(2024-04-30)

天守(南西から)
天守(南西から)

毘沙門天さん が  館山城(千葉県館山市) の写真をアップしました(2024-04-30)

天守(南側から)
天守(南側から)

毘沙門天さん が  館山城(千葉県館山市) の写真をアップしました(2024-04-30)

天守(西側から)
天守(西側から)

毘沙門天さん が  館山城(千葉県館山市) の写真をアップしました(2024-04-30)

本郭にある案内板(模擬天守)
本郭にある案内板(模擬天守)

館山市立博物館
館山城跡は里見義康公忠義公居城跡で房総における里見氏終焉の地であります。
館山市は由緒あるこの地を永く記念するとともに広く皆様に親しんていただくために城郭様式の博物館を建設しました。
建物は城郭研究の権威藤岡道夫工学博士(故人)の考証によるもので二重橋に入母屋の大屋根をかけその上に小望楼をのせた天正年間の天守の姿にしてあります。
建築 鉄筋コンクリート造り 三層四階建て 
延床面積 四九二平方メートル(約一五〇坪)
総高 一九、一メートル
竣工 昭和五十七年三月三十一日
開館 昭和五十七年十月三十一日
館山市立博物館

毘沙門天さん が  真壁城(茨城県桜川市) を「行きたいお城」に登録しました(2024-04-28)

毘沙門天さん が  佐貫城(千葉県富津市) の写真をアップしました(2024-04-27)

案内板(大手門跡)
案内板(大手門跡)

佐貫城跡
富津市佐貫字城跡一二二五他
佐貫城は、室町時代後期から明治時代初頭まで城主が替わりながら存続した城である。佐貫城の築造年代については諸説があるが、真里谷武田氏が十六世紀初頭に築いたと言われ、武田信嗣が永正四年(一五〇七)に鶴峯八幡神社を再興していることが、その根拠の一つとされている。
その後、天文年間(一五三二~一五五五)には、武田氏との争いに勝った里見氏の居城となり、永禄十年(一五六七)の三舟山合戦では、里見義弘がこの城を本拠地として北条軍に勝利した。次いでその子梅王丸が居城したが、徳川家康の関東入部に伴って、里見氏は安房一国の支配に後退し、天正十八年(一五九〇)に徳川家臣の内藤家長が城主となった。家長は二万石を与えられて佐貫藩の下地を作ったが、関ヶ原合戦の直前に戦死、次いでその子政長が元和八年(一六二ニ)まで在城した。
内藤氏の後は、松平忠重(桜井松平氏)が寛永十年(一六三三)まで、寛永十六年(一六三九)から松平勝隆・重治(能見松平氏)と続き、貞享元年(一六八四)に重治は所領を没収された。元禄三年(一六九〇)から元禄七年(一六九四)まで柳沢吉保がこの地方を治め、その後十六年間ほどは幕府代官・旗本による統治となった。
宝永七年(一七一〇)、阿部正鎮(一万六千石)が入封し、以後九代正恒まで百六十年にわたって阿部氏が城主となっていたが、明治四年(一八七一)の廃藩置県によって廃城となった。
平成三十年十一月十五日
富津市教育委員会

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村上義清と信濃村上氏―坂城町信濃村上氏フォーラム記念誌

信州大学の先生が、北信濃の戦国大名 村上氏のお膝元である坂城町で行った講演を書籍化したものです。
村上氏(因島村上水軍も出てきます)に興味のある方限定ですが、郷土の歴史が楽しく学べます。また、坂城町が郷土の歴史を活用した町おこしについて奮闘している様子も書かれており、好感が持てます。

茶々さん)

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