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毘沙門天さんのタイムライン

毘沙門天さん が  久留里城(千葉県君津市) の写真をアップしました(2024-05-12)

災害復旧の案内板(本丸の攻城不可)
災害復旧の案内板(本丸の攻城不可)

復旧は令和六年中とあるが、あくまで目処

毘沙門天さん が  久留里城(千葉県君津市) の写真をアップしました(2024-05-12)

天守(三の丸跡から)
天守(三の丸跡から)

山頂の左手が二の丸跡、右手が本丸跡

毘沙門天さん が  久留里城(千葉県君津市) の写真をアップしました(2024-05-12)

久留里曲輪(二の丸跡付近)
久留里曲輪(二の丸跡付近)

毘沙門天さん が  久留里城(千葉県君津市) の写真をアップしました(2024-05-12)

薬師曲輪(二の丸跡付近)
薬師曲輪(二の丸跡付近)

眼下は三の丸跡

毘沙門天さん が  久留里城(千葉県君津市) の写真をアップしました(2024-05-12)

新井白石之像(二の丸跡)
新井白石之像(二の丸跡)

(銅像下部の説明文)
新井白石は君美幼少より久留里藩主土屋利直に仕し後江戸に出て苦学力行木下順庵に朱子学を学びその推挙により甲州藩主徳川綱豊の儒臣となる
綱豊徳川六代将軍家宣となりその側用人に登用されるや従来の武断政治を文治政治に改め「正徳の改革」を推進す
又合理性と実証を重んじ史学地学語学の研究興隆に先駆的な事績を挙ぐ
更に文学に優れその著「折焚く柴の記」は江戸時代散文の傑作達意明快
なる名著にして今日なお世界的学者としてその名を知らる
千葉県知事 川上紀一 撰文
この銅像は久留里市場ー八〇番地 眞田達三郎氏が久留里城再建を記念し郷土の誇りたる新井白石を想い、青少年に健全なる夢と奮起を願望しゆかり深い城山の地に寄贈建立さる
昭和五十三年十二月吉日
君津市長 鈴木俊一

毘沙門天さん が  久留里城(千葉県君津市) の写真をアップしました(2024-05-12)

長屋塀(二の丸跡)
長屋塀(二の丸跡)

(案内板) 二の丸・長屋塀跡
この長屋塀は、二の丸の西に位置し、眼下に三の丸を望む場所に建てられていました。
本来は、多門櫓に近い性格の建物ですが、寛保年間の絵図に「長屋塀」と記されているところから、この名称を使っています。
長屋塀は、細長い形をした長屋風の建物で、用途は主として諸道具を収納する庫に用いられていたと思われます。
調査の際確認した礎石は、全体の約二分の一程度でしたが、配列状況から判断して、長屋の規模は絵図に記載されている通り、ほぼ十間(十八メートル)✕二間半(四・五メートル)であると推定されます。
礎石のつくりは、天守台に比べてかなり粗雑で石質も悪く、ノミによる整形の跡がみられます。これらの礎石は、ほとんどが赤褐色の砂岩で、二の丸から切り出した石を使用しています。
また、礎石からおよそ一尺(二十センチ)程離れたところに、軒に沿って瓦が立てた状態で埋められていますが、これは、軒からの雨だれを受ける「雨落ち溝」の役割を果したものと考えられます。
昭和五十四年七月
久留里城址資料館

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二の丸跡(久留里城趾資料館)
二の丸跡(久留里城趾資料館)

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鶴の曲輪(二の丸近く)
鶴の曲輪(二の丸近く)

毘沙門天さん が  久留里城(千葉県君津市) の写真をアップしました(2024-05-12)

堀切跡(久留里曲輪付近)
堀切跡(久留里曲輪付近)

二の丸に向かう途中

毘沙門天さん が  久留里城(千葉県君津市) の写真をアップしました(2024-05-12)

堀切跡にある案内板(城の歴史)
堀切跡にある案内板(城の歴史)

(案内板) 上総 久留里城
久留里城は「城成就して、三日に一度づつ雨降ること二十一度なりしかば」(『久留里記』)と言う説から、別名を「雨城」と言います。
戦国期の一六世紀中頃、西上総地方は真里谷武田氏の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城でした。天文年間(一五三ニ〜五五)の後半になると、安房の里見義堯は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。
永禄七年(一五六四)、下総の国府台の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も一時、北条方の手に落ちています。しかし、二年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され、天正五年(一五七七)、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれています。
天正一八年(一五九〇)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収されました。
以後、関東は徳川氏の支配となり、久留里城には大須賀忠政が三万石、慶長七年(一六〇二)には、土屋忠直が二万石で入城します。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石は、土屋家二代目の利直に仕え、一八~二一歳までの青年期をこの久留里で過ごしています。三代目の頼直の時、お家騒動が起こり、延宝七年(一六七九 )、領地召し上げ、廃城となります。
約六〇年後の寛保二年(一七四二)、黒田直純が三万石の藩主となり、幕府から五千両を拝領し、三年の歳月をかけ城を再興しています。黒田氏の治世は、初代直純から約一三〇年間続き、九代直養の時、明治維新を迎え、明治五年(一八七二)、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられます。
平成十三年六月
君津市立久留里城址資料館

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案内板(駐車場から二の丸へ)
案内板(駐車場から二の丸へ)

わかりやすい図

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

本丸にある案内板(絵図)
本丸にある案内板(絵図)

上総大多喜城絵図
上総大多喜城は、初代城主本多忠勝によって築かれ、西から東に張り出す丘陵を利用し、本丸・二の丸・三の丸を
配置し、西は尾根を切る空堀、南は夷隅川に落込む急崖、東と北は水堀という要害堅固の城です。
この城絵図は明治元年(1868)、最後の城主松平正質の時、作図されたものです。

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

土塀(本丸東側)
土塀(本丸東側)

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

二之丸公園
二之丸公園

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

天守(南東から)
天守(南東から)

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

天守(南西から)
天守(南西から)

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

天守(北西から)
天守(北西から)

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

空堀
空堀

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

案内板(大多喜城分館)
案内板(大多喜城分館)

(案内板右側)大多喜城の歴史
上総大多喜城は、戦国時代に築かれ、小田原北条氏の滅亡に伴い、徳川四天王の一人である本多忠勝がこの地に十万石で封じられました。
城主は、本多氏三代のあと、阿部氏等の譜代大名が入りましたが、元禄16年(1703)の松平氏の入城以降は9代続き、最後の城主松平正質の代に明治維新を迎えました。
『大多喜城地之絵図」
元大多喜城主大河内松平家に伝来した絵図で元禄年間に描かれたものと推定される。

毘沙門天さん が  大多喜城(千葉県大多喜町) の写真をアップしました(2024-05-03)

大多喜水道跡(トンネル)
大多喜水道跡(トンネル)

(案内板)大多喜水道
城下町大多喜は、昔から良い飲み水に恵まれず、人々の苦労は絶えませんでした。
最後の城主である松平(大河内)正質の頃ようやく水道の工事が具体化し、明治二年(一八六九)十一月に工事を始め、翌明治三年五月に完成しました。
この水道によって、城下二百戸が潤い、二十ヘクタールの水田の灌漑が行われました。
水源 ここから西へ約二キロの水流
全長 約五・八キロ(内約四キロはトンネル)
責任者 柳原 小高半左衛門
工事 上原 三上七五郎 小苗 高橋四郎左衛門

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今日のレビュー

破軍の星 (集英社文庫)

レビュー投稿を見てすぐ読み始めたけど前半の会話文調に苦戦、やっと読了しました。しかし流石ハードボイルド作家、中盤からの合戦シーン、更に後半クライマックスに向けて鬼気迫るものがありました。北畠顕家は若干16歳で陸奥鎮守府将軍に任ぜられ、秀吉中国大返しにも勝る超高速行軍を成し遂げ、全国に3つの銅像が設置(北畠氏館は直接は無関係なのに)される有能な武将ですが、足利尊氏、楠木正成、新田義貞らのビッグネームに隠れていてちょっと悲しい。多賀城攻城した時もあんまりフィーチャーされてなくて、残念な思いになりましたが、この本で勇猛果敢な若き将軍の生きざまにあらためて感服しました。

弥一左衛門さん)

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