金沢城
金沢城

[石川県][加賀] 石川県金沢市丸の内


  • 平均評価:★★★★☆ 3.81(25位)
  • 見学時間:1時間33分(18位)
  • 攻城人数:3656(16位)

戌亥櫓跡

戌亥櫓(乾櫓)は本丸の北西隅に位置していた櫓でした。

現在、櫓はありませんが櫓台からは二の丸に復元された菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓を眺めることができます。

櫓台に設置された案内板の内容を紹介します。

戌亥櫓跡(いぬいやぐらあと)
本丸の北西角、戌亥の方角に当たることから「戌亥櫓」と呼ばれていた。西と北に「出し」という出窓がついている二層の櫓だった。宝暦火災(一七五九)の後、再建されなかった。

金沢城の歴史についての案内板もあります。

金沢城の歴史
 中世末期に一向一揆の拠点として金沢御堂(かなざわみどう)がこの地に置かれ、天正8年(1580年)に佐久間盛政(さくまもりまさ)が入城し、金沢城の造営が始まりました。
 その後、天正11年(1583年)前田利家(まえだとしいえ)が入城し、本格的な近世城郭へと姿を整えていきました。文禄元年(1592年)の石垣普請(ふしん)、元和7年(1621年)の本丸の拡張などを経て、寛永の大火後(1631年以後)現在の金沢城に近い姿になりました。
 左の絵図は江戸初期、右の絵図は宝暦大火後(1759年以後)の姿を描いたものです。江戸初期の絵図には、石川門の構造が現状と異なり、二の丸が狭く、三の丸や新丸などに家臣の屋敷があるなど、江戸後期の絵図と異なるところが多く見られます。
 現在天守閣はありませんが、慶長7年(1602年)に落雷によって焼失するまで本丸に聳えていました。焼失後、天守閣の代わりに三階櫓(やぐら)が建てられ、宝暦9年(1759年)の火災まで城のシンボルとなっていました。二の丸には寛永の大火後、二の丸御殿が造られ、藩主の御殿および藩庁として藩政の中心にありました。三の丸には鉄砲所(てっぽうじょ)、新丸には作事所(さくじしょ)・細工所(さいくしょ)などの施設がありました。
 明治4年(1871年)廃藩置県で明治政府の所轄となって旧陸軍の拠点となり、昭和24年(1949年)からは金沢大学のキャンパスになりました。その後、大学の移転により平成8年(1997年)に石川県が取得し、金沢城公園として整備を実施しています。

建物こそありませんが、石垣は見事です。

戌亥櫓石垣(いぬいやぐらいしがき)
 この石垣は「粗加工石積み(あらかこういしづみ)」の積み方をしていますが、石の隙間に平らな石をはめ込み、「切石積み(きりいしづみ)」のように見せる技法が用いられています。長い年月の間に石が抜け落ちていますが、当時の巧みな技術を見ることができます。
 はめ込まれた石が残っているところと抜けおちたところを比較しながら、当時の姿を想像してみてください。

創建 寛永8年(1631)頃
改修 寛文(1661〜1673)頃、明和3年(1766)
現状 西面(正面)の大部分は寛文頃の改修時、一部明和3年の改修時の姿を残す。
   

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今日のレビュー

戦国和歌山の群雄と城館 (図説 日本の城郭シリーズ12)

とてもローカルな内容ですが、地元の城郭研究会の方々が実際に現地調査をして書かれているので、和歌山の城を知りたいときにはとても役立ちます。
特に、和歌山は著名な戦国武将がいないわりに、中央に近いので、その影響をもろに受け、群雄が接近したり反発したりととても複雑な様相を示しています。多数存在する小領主とその居城を網羅するこのような本の存在は大変ありがたいです。
今回は、図書館で借りましたが、自分でも持っておこうと思いました。

黒まめさん)

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