百間土手下の広場はグラウンドゴルフ場として使われていました。
非常にスケールの大きな城址でした。
麓の石垣土塀は「百閒石垣」です。
陸繋島につくられた城です。
志岐城出丸から
富岡港付近にて
大手門の駐車場側から
住宅街の中にありますが周辺には駐車場や広場などがあり見学しやすいです。
百間石垣とも呼ばれています。
百間土手下の広場はグラウンドゴルフ場として使われていました。
往時、百間土手は海に面していたようです。
一般の駐車場の上にも小さな駐車場があります。この案内板はそこのものです。
岩盤と石垣の城壁です。
先端の土塀が切れている所にはかつて多門櫓が建っていたようです。
先端は、はばき石垣で補強されていました。
出丸西側の石垣の先端ははばき石垣で補強されていました。
土塀が途切れて柵になっているところはかつて多門櫓が建っていたところです。
出丸の東側には虎口はありません。 東側からだと本丸付近の東虎口から二の丸に戻れます。
帯曲輪下の石垣です。 正面の横矢かけの所には現在、稲荷社があります。石垣には樋の穴が開けてあり稲荷社も窪地に建っているのでかつては水場だったのかもしれません。 また石垣下からの斜面は三の丸にあたります。
積み方が切込みハギになています。 見えている建物は東角櫓です。
三の丸からの大手虎口です。 奥が本丸になります。
三の丸からの大手虎口です。 奥が本丸になります。
東虎口から
東虎口から
東虎口から 二の丸は左の建物が「二の丸長屋」で苓北町歴史資料館になっています。 木に隠れている右側の建物は「東角櫓」です。 二の丸にある4体の銅像が塀の上に見えています。
東虎口から出丸まで繋がっています。
窪地に社が建っていました。 外に向けて石垣に穴が開いています。
帯曲輪から
帯曲輪(東側)から
出丸の先端、塀が途切れているところには多聞櫓があったようです。 礎石も見えています。
海の向こうに島原半島が見えます。
鈴木重成・鈴木正三・頼山陽・勝海舟の4人の銅像がたっています。
二の丸から 右の砂州は志岐(天草下島)と富岡を繋ぎ富岡半島を陸繋島にしています。 左の砂嘴によって巴湾を形成し城の防衛にも一役買っています。
二の丸にて
銅像の解説です。
二の丸にて
二の丸にたっています
銅像の解説です
銅像の解説です
流れ着いた砂が堆積して鳥の嘴(くちばし)のようになったものを砂嘴といいます。富岡城下の砂嘴は曲崎と呼ばれ巴湾を形成し、城の防衛にも一役買っています。
絵図などでは二層の櫓として描かれており、現在も本丸外からは二層のように復元されていますが、実際は平屋造りで、壁の中ほどに庇をつけ二層に見せています。
2016年の写真と比べるとかなり傷んでいます。
元々は入江でしたが百間土手で関止め内堀としています。
正面が西櫓、右側は北櫓です。 絵図などでは二層の櫓として描かれており、現在も本丸外からは二層のように復元されていますが、実際は平屋造りで、壁の中ほどに庇をつけ二層に見せています。
見た目は2階建てですが庇は見せかけで平屋建てだそうです。
復元整備の際に二の丸の石垣が三重構造であることがわかり、それが分かるように整備されています。 一番奥が寺沢氏が築城した際のもの 真ん中の石垣は、天草・島原の乱後に急造されたもの 手前のものが山崎氏による改修の時のものだそうです。
陸繋島だということがよくわかります。
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