遺構などはありません。
覚鱉城(河崎の柵)は北上川と砂鉄川の合流地点、北上川の河岸段丘上に立地しています。 撮影場所背後が北上川で土手の上から撮影しています。住宅街の奥に見える土手の裏が砂鉄川になります。 発掘調査の結果、縄文時代の集落跡や覚鱉城築城の時代の遺物、河崎の柵と思われる二重の堀跡が城址碑の西側で検出されたという事です。
北上川の土手横にあります。
北上川の土手横にあります。
遺構などはありません。 覚鱉城(河崎の柵)は北上川と砂鉄川の合流地点、北上川の河岸段丘上に立地しています。 撮影場所背後が北上川で土手の上から撮影しています。住宅街の奥に見える土手の裏が砂鉄川になります。 発掘調査の結果、縄文時代の集落跡や覚鱉城築城の時代の遺物、河崎の柵と思われる二重の堀跡が城址碑の西側で検出されたという事です。
北上川の土手から。 発掘調査では土手側から右端の家に向かって堀が検出されその堀は真っすぐ後ろの針山の麓に向かって掘られていると推定されています。更にこの北上川から針山に向かって堀は70m離れたところにも平行に掘られており、平泉(衣川)への敵の進軍を防ぐ役目があったとされています。 河崎柵は堀から後ろの針山との間の平地にあったという説と、針山にあったという説があります。
覚鱉城(河崎の柵)は北上川と砂鉄川の合流地点、北上川の河岸段丘上に立地しています。 右側の川が北上川で、土手の上から撮影しています。左奥に見える土手の裏が砂鉄川になります。 発掘調査の結果、縄文時代の集落跡や覚鱉城築城の時代の遺物、河崎の柵と思われる二重の堀跡が城址碑の西側で検出されたという事です。 また砂鉄川との合流地点付近には川港の跡と思われる框石の遺構があるそうです。
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