ビジターセンターに駐車して歩きです。
営業時間10:00~15:00 定休日月曜日、年末年始 と閉まるのが早いので気をつけて下さい。
造山城は古墳を改変してつくられた城で、古墳の埋葬者は不明ですが古代吉備国の王だとされています。 古墳としては全国第4位の古墳で他の上位の古墳が天皇陵のため立入り禁止なため、造山古墳は誰でも登れる古墳としては全国一の規模を誇ります。
模型でもわかるように、後円部分の頂部の左と下に土塁が残っており、後円部分から前方部への斜面は切岸造成等により二段の腰曲輪が作られています。
緑がないところは土砂崩れを補強したところになります。
頂部まで綺麗に道が整備されていますので気軽に登れます。
桜が見事でした。
城として改変されたのはこのあたりからになります。 後円部分と前方部分との境の斜面を造成して切岸と腰曲輪を作り出しています。
後円部分南東側にも腰曲輪が作られています。 腰曲輪の真上の本丸(後円部頂部)には土塁が築かれており、この腰曲輪への連絡のためか、土塁の中央が開いています。
写真中央、桜の木の奥に霞んで見えている山は「備中福山城」と「幸山城」です。
南と東側にある土塁の間に開いた虎口から撮影
東側の腰曲輪への虎口になっています。
東側腰曲輪から南東の麓に向かって竪堀が掘られています。 肉眼でわかる竪堀は造山城ではここだけなのですが、精密な地形測量によると北側にも一本竪堀状の窪みがあるそうです。
北東側を見渡すと大きな赤い鳥居が見えます。その周辺が「備中高松城」になります。 造山古墳が高松城水攻めの時に毛利側の陣城地として選ばれたのがよくわかります。
北側の鉄塔や建物が見える山は庚申山といい、高松城水攻めの時には吉川元春が陣を敷きました。 さらに、写真左奥の山の山頂には鬼ノ城があり西門が肉眼でも見えます。
東側に見える山は天神山といい、高松城水攻めの時には小早川勢の小田孫兵衛、細川兵部、杉原播磨守が陣を張った甫崎天神山城がありました。 甫崎天神山城(山頂ではなく写真の左側の尾根)は山陽自動車建設によって破壊されましたが、その時発掘調査がされています。
写真中央奥に霞んでいる山が備中福山城で、その右側に伸びている尾根の先端にあるのが幸山城です。 高松城水攻めの時、小早川隆景はまず幸山城に入城し、その後、写真左に見える山の先にある日差山城に陣を移しました。
北側から撮影。 ちなみに写真奥(南側)の一番高い山の山頂には鷹ノ巣城跡、その左側に見えるピークに日差山城跡があり、高松城水攻めの時、小早川隆景が陣を置いたとされています。
前方後円墳の後円頂部が本丸です。削平され本来より広くなっているようで、写真奥に見える土塁が東側と南側に作られました。
2022年、造山城として発掘調査をしていたら石室の頂部と思われる板石群がみつかり、大変な話題となりました。現在は埋め直されていますが、今後本格的な調査が始まると思います。
東側から。よく残っています。
奥の一番高い山は江田山と言い「鷹ノ巣城跡」が、左側の山は日差山と言い「日差山城」があり、高松城水攻めの時に2万の小早川隆景軍が陣を置いたとされています。
城として改変されたのはこのあたりからになります。 後円部分と前方部分との境の斜面を造成して切岸と腰曲輪を、そして左右に一つづつ腰曲輪を作り出しています。 丸かった後円部分が直線になっています。
前方後円墳につくられた造山城ですが前方部分は削平はされていますが防御施設の痕跡はなかったそうです。
前方部分頂部にある荒神社の裏にあります。
城郭としての堀切ではなく、古墳造成のために尾根を断ち切った跡です。(麓の窪地) 近年まで造山古墳を囲む周濠があったのか論争があったようですが調査により存在が確認されこの堀切部分も周濠の一部だったと思われます。
直弧文の彫刻がある石障が発見された希少な古墳で現在復元工事が行われています。
前方部頂部荒神社にある石棺で造山古墳のものとも、近くの新庄車塚古墳から運ばれたものとも伝われています。 2022年「造山城」としての痕跡を発掘調査中に造山古墳の石室と思われる板石が後円部分で露出したので、今後の調査でこの謎も解けるかもしれません。
荒神社にて
前方部頂部に建てられた社です。
桜が邪魔で見えませんが綺麗なのでよしとします。
造山城こと造山古墳は一般的な前方後円墳より前方部分が長いそうです。
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