臼杵市観光交流プラザより臼杵城を望む。
臼杵市観光交流プラザより臼杵城を望む。
臼杵城の大手門公園に立っており、「早春賦」を作詞した人物だそうです。
石垣の上には亭櫓が建っていたそうです。
古橋のある臼杵城の入口で、ここから畳櫓や大門櫓へ行けます。
古橋門は現存していませんが、脇には二重の亭櫓があったそうです。
畳櫓の向かい側にあり、往時には中門櫓があったそうですが、現在は失われています。
臼杵城に現存する往時の櫓の1つで、古橋口から二の丸へと登城道を上ると建っています。
時鐘櫓跡には「原山時鐘」という鐘があり、元禄13年(1700)に鋳造されたそうです。
今橋口は三つの枡形が連続し、上ノ門や勘定櫓、着見櫓などで守りが固められていたそうです。
今橋口にある着見櫓跡の石垣で、臼杵城でも新しく整備された部分のためか、石垣も高く積まれ見応えがあります。
天守は三重で、福原氏時代に建てられ明暦1年(1655)に大改修を受け、廃城まで残っていたそうです。
かつては堀底から高さ7mの石垣でしたが、大正時代の公園整備の際に上部3mが撤去されたそうです。
江戸時代、空堀から東側を本丸と呼ばれていて、明治維新後に公園として整備され、今の姿になったそうです。
鉄門は両端が石垣の上に乗った渡櫓門で、門前を食い違い虎口として守りを固めており、南半分の石垣が現存しています。
南空堀は稲葉氏が整備したもので、深さは約10mあります。
臼杵市出身の彫刻家、日名子実三(1893~1945)の作品で、俊寛という平安時代の僧侶がモデルだそうです。
二の丸跡の北側に鎮座している神社で、歴代稲葉氏の霊をはじめ、明治10年(1877)の西南戦争で戦死した43名と、太平洋戦争で亡くなった人々の霊が祀られています。
護国神社境内一帯には延宝3年(1675)、本丸にあった城主居館が老朽化したため、これを西之丸に新築した御殿があったそうです。現在は池の一部が残されています。
会所櫓の櫓台は、階段周辺のほぼ垂直に積まれた切り込み接ぎの石垣が印象的です。
井楼櫓は臼杵城で最も大きな二重櫓で、城の奥にある天守が城下から見えなかったため、天守代用櫓となっていたそうです。
二の丸の正門にあたり、平城13年(2001)に木造で復元されたそうです。
江戸時代には水堀に古橋、今橋の二つの橋が設けられ、古橋は二の丸大手筋とされていたそうです。
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