吉田城
吉田城

[愛知県][三河] 愛知県豊橋市今橋町


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.30(91位)
  • 見学時間:49分(97位)
  • 攻城人数:1972(75位)

裏御門跡と案内板

冠木門とは別に、二の丸から本丸に入るもうひとつの門が裏御門でした。
裏御門の建物は残っていませんが、枡形構造になった石垣だけは現存しています。

本丸側から見た裏御門跡です。

裏御門跡の入口(二の丸側)に案内板があります。

吉田城の縄張り
 吉田城の縄張りは豊川や朝倉川を背に本丸を基点として、二の丸・三の丸を前面と側面に配した半輪郭式の「後ろ堅固の城」と称されるものである。ただし、この縄張りの欠点は、河川を背にして戦う背水の陣となり、さらに背後からも渡河され、本丸を直接攻撃されやすいことにある。このため、吉田城は本丸背後に腰曲輪を備え、石垣もより高く強固なものとしてその弱点を補っている。
 その城域は、東は現在の飽海町から旭町、南は曲尺手町から呉服町、西は関屋町に達するおおよそ840,000m2(約25万5千坪)にも及ぶ広大なものであった。
 今橋城時代の縄張りがどのようなものであったのかそれを裏付ける史料はないが、往時の本曲輪は、現在の本丸と三の丸会館の間(現在地付近)の金柑丸跡を中心とする一帯と推定される。

当時の本曲輪とされる金柑丸跡の石碑は、案内板のすぐそばにあります。

   

この記事をいろんなキーワードで分類してみましょう。

この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)新規登録(登録は無料です)

吉田城の城メモ一覧

あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。

新規登録(登録は無料です)

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

今日のレビュー

「関ヶ原」の決算書 (新潮新書)

戦をするにもお金がかかるんだなぁと実感。現代の「円」に換算して説明しているので、わかりやすくおススメです。
関ケ原の合戦後、豊臣家と徳川家の権力がなぜ逆転したのか、納得できた気がしました。

たなとすさん)

書籍ページを表示する

すべてのレビューを表示する

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る