登り口の碑です
慈悲門寺跡の端にはかなりの高さの土塁が残っています。
写真左側に石塁によって一段高くなった区画があり本堂などが建っていたと思われます。
石材も使われていました。
土塁の先は断崖でした。
土塁は足場が悪いので本当は登らない方がいいかもしれません。
慈悲門寺跡からもまだまだ先です。
二段の石列で区切られたスペースがありました。
道が危険なためここから谷向の山王宮を拝んでいたようです。 山王宮への道は狭くて滑落しそうな道でした。(自分は引き返しました)
写真中央の岩の窪みに社が見えています。
案内板にツタが絡まってしまってます。
坂の上が水門跡です。
この建物の裏に池があります。
拝殿の中に資料が少しありました。
水神宮拝殿に「岩屋城せんべい」に封入されているパンフレットがラミネート処理され掲示されていました。ちなみにこのパンフレット裏には岩屋城を完全包囲している陣城群の詳しい案内が載っています。
龍神池のほとりにあります。
沢をせき止めて池にしているようです。右側の見切れたあたりに井戸跡もあります。
急にコンクリート道、登っていけば主郭方面です。左側に飲料水用井戸、右に南堀切への分かれ道の道標が立っています。
主郭の直下にある井戸跡です。井戸に土砂が流れ込ませないためにか山側に石積みがされていました。
道標や案内板などがありますが、道中は倒木などがあり難儀しました。
整備されているのではっきりわかります。
津山方面の眺望です。生憎津山の霧が晴れていなかったのですが津山城の備中櫓が望遠で確認できました。
鳥居(額には岩屋山と書かれています)のある段が馬場跡です。ここからの眺望は最高で、津山城の備中櫓も微かに見えました。また元旦にはここで初日の出を見る会が催されているようです。
日焼けしてしまって読みにくいですが、馬場からは津山市街(津山城)や神楽尾城、荒神山城が見えるようです。
額には岩屋山と書かれています。 元旦にはここから初日の出を拝む会が催されているようです。
馬場跡の東屋にて
馬場跡の東屋にて
ここからの眺望はとても素晴らしく、遠く津山城も見えます。
写真を撮ってる側が馬場跡、尾根を奥へ進むと本丸などの主郭、左の尾根を降りると小分城(曲輪)のある尾根筋、石橋上の砦、椿ヶ峪砦のある尾根筋です。
切岸がきれい
きれいに下刈りされていました。
岩屋城跡はあまり土塁が見受けられなかったのですが、ここは少し土塁跡のような高まりが残っていました。
本丸から西側の眺望案内です。 篠向山城が見えるようです。
皆さんと同じアングルで
本丸北側は急斜面となっており「落とし雪隠」と呼ばれています。
二の丸の東端にある案内板ですこの下が大堀切です。
流石にここからは下りられないので遠回りで(それでも堀底までは険しかったです。)
矢竹の藪の間の道を登っていくことになります。 結構わかりにくかったです。
写真は二の丸側の切岸です岩盤を削っているようです。
こちらの尾根の先から宇喜多側の付け城群の山々に行けるようですが今回は引き返しました。
畝状竪堀群です。
「てのくぼり」と言われています。
こちら側の道は小型重機を上げるためすべて舗装で階段なしで城域まで登れますが、史跡なし、急傾斜、つづら折れが続きます。
岩屋城への道路沿いに付け城の入口がありますが入口付近に駐車スペースはありません。 (少し先の通り抜けができる場所に路駐しました)
防獣ネット沿いのあぜ道を山の尾根に向かって歩いていきました。
現在はそれほど土塁も堀も高さはないですがこのような塁が岩屋城を囲む尾根上に延々と続いています。
写真右側の土塁上には小さな曲輪があり、その曲輪を土塁と横堀が囲っています。
岩屋城の周囲には毛利方だった岩屋城を包囲するように宇喜多方の付城が巡っています。 荒神の上砦は見学コースにも含まれているので比較的整備されていました。 横堀や虎口、長い土塁などがよく残っていますが規模が小さくてミニチュアの城って感じです。
土塁に囲まれた小さな曲輪もありました。そして各曲輪と曲輪の間は土塁で繋がっています。
「土塁は崩れやすいのでみだりに上がり降りしないで下さい」との注意書きがあります。
尾根の傾斜はありますが兵士が寝泊まりできそうなスペースでした。
尾根の傾斜はありますが兵士が寝泊まりできそうなスペースでした。
岩屋城の周囲には毛利方だった岩屋城を包囲するように宇喜多方の付城が巡っています。 荒神の上砦は見学コースにも含まれているので比較的整備されていました。 横堀や虎口、長い土塁などがよく残っていますが規模が小さくてミニチュアの城って感じです。
荒神の上砦、南側曲輪の虎口付近の竪堀で、この沿線上に土塁や柵などをつくり、妙福寺の上砦との間の谷を封鎖していたと推定されています。
曲輪の上から撮影
写真撮影時(2018年11月25日)には東側の谷の入り口は土砂崩れで使えなくなっており道も薮化して攻城を断念しました。後日西側の谷筋から攻城しましたがそちら側には道標がありませんでした。
写真左側が妙福寺の上砦で宇喜多側の大将「花房職之」の陣城です。 写真右側に見切れている山が楽万の上砦でこのラインに包囲時当時は土塁なり柵なりで谷を遮断していたと推測されています。
東側から。結構な傾斜です。
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