幕末に参勤交代や人質などの政策が緩められた際に、江戸から戻ってきた姫君たちを住まわせるために建てられた「松の御殿」の跡地に建てられたそうです。
幕末に参勤交代や人質などの政策が緩められた際に、江戸から戻ってきた姫君たちを住まわせるために建てられた「松の御殿」の跡地に建てられたそうです。
石垣の写真中央部で、現在は石で塞がれていますが、トンネル状になっていて、門の中の階段を登ると本丸内に通じていたそうです。
中津川沿いの石垣には「唐原山城(唐原神籠石)」から持ち出されたとされる四角く加工された石が多用されています。
中津川の土手の近くにある黒田如水(官兵衛)と正室・光(てる)姫の像で、中津川の方向を向いています。
本丸北東部の二の丸より天守と二重櫓を望む。
薬研とは漢方薬などを、底がV字になった船形の器具で車輪を使い粉にひく道具で、薬研の断面に似て底がV字になった堀を「薬研堀」と呼ばれているそうです。
本丸南東隅に位置する鳥居がある入口で、入って西側は塀で塞がれ、北側に折れてくぐる枡形虎口の構造だったそうです。
椎木門を北へ折れてくぐると虎口跡があり、扇形に弧を描く石垣があります。かつては虎口が2つあったそうですが、現在は虎口の1つが残っています。
中津城趾の公園地内にある神社で、伊勢の神宮の大神様の御分霊を奉斎し、「豊前の国のお伊勢様」として親しまれています。
中津城公園上段に鎮座している神社で、武勇に優れ、群雄割拠の中で徳川を助け覇業を成し遂げた奥平三柱が祀られているそうです。
天守より中津川と周防灘を望む。
天守より中津市街を望む。
東京の高輪南町の奥平藩の下屋敷の隣藩との境界争いの際に、正直に証言した隣藩の家臣が上司達に死罪にされ、奥平の屋敷内に亡骸を投げ入れました。これに心を痛めた奥平忠昌公がその隣藩の家臣を地蔵菩薩として地蔵堂に納め、終生お参りをしたそうです。
福澤諭吉の偉業を称え、明治37年(1904)7月8日、福澤家のご意思に沿って中津城公園に記念碑を建立されました。当時は公園地中央にありましたが、昭和7年(1932)10月18日に、現在の位置に移設されたそうです。
細川三斎(忠興)は、三口の井堰から上水道を城内に引き込み、防火用水としても使用され、池は三斎にちなんで三斎池とよばれており、上水道は「お水道」とよばれ、城下町内を発掘すると、お水道の施設が発見されたそうです。
書は旧中津藩主奥平昌恭。中津隊は、西南戦争に西郷軍側に呼応した不平士族の部隊で、明治10年(1877)現在の大分県中津市において増田宋太郎を中心とした旧中津藩士によって結成され、中津にて蜂起し、中津城の御殿に放火し焼失させたそうです。
石碑には、隊長増田宗太郎、副隊長梅谷安良両先生が書かれた字がそれぞれ自筆のまま拡大して石に刻まれています。
中津城で黒田氏に謀殺された宇都宮鎮房は、この地に埋葬されました。宝永2年(1705)に中津藩主小笠原長円が宇都宮鎮房を「城井大権現」として、城の守護神として祀るようになったそうです。
扇城神社には黒田氏に殺された宇都宮氏の従臣が祀られています。城井神社と同じく宝永2年に小笠原長円が宇都宮氏の従臣を稲荷大明神として祀ったことが始まりだそうです。
天守と中津川の土手との間にある石垣で、中央のY字を境に右側が黒田時代の古い石垣で、左が細川時代の新しい石垣となっています。
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