北外山城址より力が入っています。
「約50m北にあったが移設」とある。砦の広さがどれくらいのものだったのか、それくらいずれていても当時もこのような平地だったのだろうから気にしなくてもいい気がする。
北外山城址より力が入っています。
それでもなぁ、案内板には「丹羽長秀の屋敷があったとされる」とあるのでここも蟹清水城と名付けられても不思議ではない。しかも「昭和20年代頃まで堀跡、土塁跡なども残っていた」って! 北外山城と蟹清水砦、どこのなにが城と砦、呼びわけることになったのだろう。
ほらほら、砦のあった場所に御殿を設けたんですよ。もう城と呼んでもいいのにね。砦は、戦が済んだら壊され、それでも土塁などは残っていたからじゃあここに屋敷でも造るかってなもんだったのでしょう。南北両外山の場合は城が砦になった。その逆パターンとみた。
北外山城で物足りなかった分を蟹清水砦と小牧御殿で取り返しています。時間をつくれるなら付近を歩くといいという好例ですね。
ごく普通の2車線道路で隔たれています。今ではこんな何気ない場所も、往時は砦があったり御殿があったりしたんですねぇ。
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