(案内板より抜粋)平成11年には、本丸西側斜面に残存高7m、築石段数21段の石垣が発見されました。また、石垣以外に注目されたのが破城の痕跡でした。空堀底部に、壊した石垣の石材を敷きつめるように並べ、その上に土をかぶせて隠していることが判明したのです。
城址南東麓の南関御茶屋から登城できるのですが、台風の影響(?)で2箇所ある遊歩道入口は立入禁止となっていました。さて、どうしたものかと思案していたところ、右手に山道を発見。こちらは封鎖されておらず、試しに登ってみると、倒木が数ヵ所あったものの5分程で本丸東側の枡形虎口に至ることができました
台風の影響か倒木が数か所ありましたが、特に問題なく本丸まで行くことができました
枡形になっていたようです
写真奥手の森の中に、堀切を挟んで広い二の丸があるようですが、深い藪に覆われ立ち入ることができませんでした
ここは、明治10年(1877)西南の役で薩摩軍と戦って死亡した政府軍の墓地で、地名をとって城ノ原官軍墓地と呼ばれる。ここには、主として木葉(現玉東町)及び高瀬(現玉名市)方面の戦闘で死亡した政府軍の77名の将兵が葬られている。戦争当時は、野戦病院となっていた関村の西宗寺の境内に仮埋葬されていたが、明治11年、この地へ本葬されたものである(案内板より) 本丸内、南側にあります
本丸の北西端に位置します
この辺りも枡形状になっているので、北側のニの丸からの虎口だったのではないでしょうか
堀切の向こうは三の丸。もともと一体の台地だったところに大きく掘られたようです。廃城時にかなり埋められているようですが、それでもその規模・土木量に圧倒されます
三の丸方向からの堀切。加藤清正自らが縄張りしたという城に相応しいダイナミックな眺めです
現地城址碑によると、城の総面積は平場の部分だけで93,180平方メートル、そのうち三の丸は38,521平方メートル。写真背後にも畑となっている三の丸が延々広がっていて、とても全景は写せない
三の丸を道なりに南西に下りていくと、幅広の土地が広がっています。実はこれも大きな堀切の跡らしい・・・凄いぞ、鷹ノ原城!
(案内板より抜粋)平成11年には、本丸西側斜面に残存高7m、築石段数21段の石垣が発見されました。また、石垣以外に注目されたのが破城の痕跡でした。空堀底部に、壊した石垣の石材を敷きつめるように並べ、その上に土をかぶせて隠していることが判明したのです。
徹底した破城がなければ、いったいどんな風景が広がっていたのだろう
最初に現れた遺構。期待が膨らみます
城址南東麓にあり。写真奥の建物が国史跡の南関御茶屋です。なお、表通りから入口に至る道がかなり狭いのでご注意ください
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