東側の堀切
西側の堀切1
西側の堀切2
西側の堀切3
高麗山県民の森案内図は各所にあり、今回の散策でも4か所見ました。写真の案内図には城についての記載があります(が、今回見かけた他の案内図にはありませんでした)。堀切の写真も2つ載っています。 城についての記載部分は以下の通り ---- 城郭としての高麗山 高麗山は相模湾から相模平野一帯を見渡せることから、古くから軍事上の要衝として重要な地域でもありました。山中にある寺の建物が軍勢を収容するための城郭として使われるようになり、記録によれば室町時代の永享10年(1438年)に関東公方の足利持氏(1398~1439)が室町幕府に対して反乱を起した(永享の乱)際にこれを討伐すべく上杉持房(?~1490?)が山に陣をかまえたのが最初のようです。その後、永正7年(1510年)に北条早雲(1432~1519)が上杉顕定(1454~1510)を討伐する際、山に立て篭もったということです。この戦い以降、山は北条氏によって小田原城と相模平野を結ぶ狼煙台として「伝えの城」(連絡用の砦)として使われるようになりました。 永禄3年(1560年)には上杉謙信(1530~78)が小田原侵攻の際、山に陣を構えて北条氏康(1515~71)と交戦したということです。 現在でも八俵山から大堂に向う尾根道沿いに往時の空堀の跡と思われる遺構が残っています。
北側(金目川沿い)からの遠景
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僕らは攻城の折に、何もない城址だとつい「残念ながら遺構は見られない」と思い、書いてしまいますよね。事実そう感じてしまうことで仕方ない。そんな中でも何かいい所を見つけて書きたいものです。そんなご同輩や私に、この本!
城って、造るのが大変で注目されるのはそこだと思いますが、落城することもあれば、天災で壊れそのまま廃城になることもあったわけで、そうした例を数多くの文献を引用して紹介してくれています。完全に破却される城がある一方、現代も遺構がある城址も存在する訳や、植栽の手入れやごみ・糞尿の処分などメンテナンス、門限や賭け事などのルール(城掟)といった生活観まで教えてくれます。
城掟ってものが残っていることを知りました。機会があれば見てみたいな。
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