大和宰相(やまとさいしょう)さん 家老   フォロー

「次世代に遺したい文化財・景観を如何に遺すか、如何に伝えるか」をテーマに活動。地元の教育委員会(当時)の方に推薦いただき城郭研究者の勉強会に参加。城郭などの文化財とその周囲の景観保護と新エネルギー(風車など)施設の共存及び環境に優しい交通機関である路面電車の利用促進という関連で取材。

大和宰相さんのタイムライン

大和宰相さん が最近のひとことを更新しました(2023-12-14)

「どうする家康」第46回大坂の陣-豊臣家に寄食していた織田信雄に土壇場で救われた片桐且元でした。且元は、豊臣家に最後に残った秀吉恩顧の大名でした。且元とその弟貞隆は、関ケ原合戦後石田三成ら豊臣家奉行衆が全滅したため徳川家康との交渉役・豊臣家領国統治を掌って豊臣家を兄弟で支えていた。且元の出世機会として知られる秀吉と柴田勝家との決戦賤ケ岳の合戦で武功を立てた「賤ケ岳の七本槍」のひとりとして近習から子飼い武将さらに大名へと取り立てられていく。秀吉子飼い家臣団の中で且元は、決して武辺一筋ではなく、むしろ方広寺大仏殿の作事奉行から街道整備や軍船調達まで兵站に関わる奉行、領国拡大に伴う検地奉行などをつとめる。その間にも秀吉の護衛や、朝鮮出兵にも出陣とマルチな働きをする。しかしながら大名への出世は遅かった。近習仲間たちから福島正則、加藤清正、加藤嘉明が早期に大名に出世し、最終的には、国持大名クラスにまで出世していく。且元は、1万石程度の大身の吏僚として留められている。このことが、秀吉死後の大坂城内での発言力の無さに繋がってしまったように感じる。確かに秀頼への取次役さらに豊臣家家老として警護役としては側近中の側近ではあったが、家康や国持大名に出世した同期生たちとでは、手持ちの軍事力の持つ発言力・政治力という分野では大きく遅れをとってしまった。本来大野治長のような若手に叱責されるような武将ではない。番組で治長に対して兄を擁護して反論していたのが、弟貞隆であるはず。大坂の陣の後の徳川政権下では、この弟貞隆の子孫が1万1千石の大名家として存続。現在も二代藩主貞昌以来続く石州流茶道家元の陣屋が我が家の裏手徒歩5分の間近にあります。                 

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今日のレビュー

レンズが撮らえた幕末日本の城―永久保存版

幕末から昭和にかけて、
レンズにおさめられた貴重な城郭が
惜しみなく掲載されている。
廃城令や戦災で失われた城も多く、
一般に発売されている資料としては
超一級品だと思う。
事前に見てから攻城すると、
天守閣がなくなっていたり、
遺構が少ない城跡でも、
当時の情景が重ねられて、
タイムスリップできた気分になれる。
城好きには一家に一冊あって
絶対損しない資料。

玄之丞さん)

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