- ブログ
【殿様の左遷栄転物語】「忠臣蔵」が同情を呼んで再興 赤穂藩浅野家
「忠臣蔵」で知られる赤穂事件で吉良上野介を斬りつけた浅野内匠頭は赤穂藩主だったので、そのまま切腹・改易となります。しかし物語はそこで終わらず、有名な討ち入り、そして赤穂藩浅野家はのちに500石ながら再興を果たしているのです。
- ブログ
【殿様の左遷栄転物語】名将の息子の愚かさが潰した 会津藩加藤家
改易となったもうひとつの加藤家が会津藩加藤家です。蒲生家のあとに会津を任されたことからも加藤嘉明がいかに幕府から信頼されていたかがわかるのですが(藤堂高虎の推薦もあったとか)、息子の明成の代に失敗するのですが、なんとか存続するんですよね。
- ブログ
【殿様の左遷栄転物語】第2章 目指せ「お家再興」 失職したけど地位を回復
第2章では福島正則や加藤清正など豊臣系の外様大名をはじめ、江戸時代初期に改易となり、しかしなんとか再興を成し遂げた大名たちを紹介します。
- ブログ
「七本槍」の筆頭であった福島正則は家康からもっとも警戒された大名だったのかもしれません。西国大名のパイプ役として重要な役割を担っていたこともあり、福島家は言いがかりのような理由で改易となります。
- ブログ
吉川元春の三男、吉川広家は関ヶ原の戦いにおいて西軍を裏切り、東軍に味方した武将として知られていますが、彼は主家である毛利家を残すために必死に働いたとも言えます。その後の行動を見るかぎり、広家なりの忠義があったのでしょうね。
- ブログ
秀吉の正室・おねの甥である木下勝俊、滝川一益の甥(娘婿とも養子とも)である滝川雄利のふたりも豊臣系ということで改易されましたが、それぞれ大名に復帰しています。
- ブログ
【殿様の左遷栄転物語】コネに救われた2人の大名 新庄直頼と久留島長親
新庄直頼と久留島長親のふたりも大名として復帰を遂げることに成功しています。新庄家は改易時より大きな所領を得、また村上海賊として知られる久留島家は関ヶ原の戦いで西軍に味方しながらも有力者とのコネクションの力で再興しています。
- ブログ
相馬家も関ヶ原の戦い後に改易となりましたが、当主・相馬利胤は平将門の子孫である名門のプライドを守り、父祖伝来の地に大名として復帰しています。
- ブログ
攻城団スタジオでの初収録となる番組を公開しました。がんばって収録&編集したのでぜひご視聴ください!
- ブログ
最初のひとりは西国無双と謳われた立花宗茂です。関ヶ原の戦いで改易された者のうち、旧領を回復した武将は宗茂ただひとりだったのですが、それはなぜか。
- ブログ
丹羽長秀を父に持つ丹羽長重は受け継いだ123万石を数年で4万石にまで減封され、さらに改易となるなど波乱の人生を歩みますが、江戸時代に入り、なんとかお家再興を果たしました。その背景を見ると前田利長や徳川秀忠など二世大名同士の人脈は大事だなと感じます。
- ブログ
佐竹義重の息子でもある岩城貞隆は兄・義宣に従ったために改易となります。そこから15年かけて貞隆が大名に復帰するまでには並々ならぬ苦労がありました。
- ブログ
【殿様の左遷栄転物語】第1章「天下分け目」のその後で 負けた後こそ正念場
江戸幕府――とくに初期の江戸幕府はさながら人事ドラマのように左遷や栄転が繰り返されました。強固で安定した幕府をつくるためにおこなわれた人事に翻弄された大名たちを見ていきましょう。
- 城メモ
榎本事務所(原作)と色s先生(作画)による滝山城と北条氏照を紹介したマンガです。
- ニュース
【6/22、八王子市】滝山城築城500年記念事業として「マンガでわかる滝山城」を公開
八王子市と滝山観光まちおこし実行委員会(事務局:産業振興部観光課)が滝山城築城500年記念事業として市内にある日本遺産・滝山城とその城主・北条氏照を紹介するマンガを制作、インターネットで公開しました。
- ブログ
【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府15代・徳川慶喜――武家政権の最後を飾った英才 1837年~1913年
最後の征夷大将軍が徳川慶喜です。どれだけ優秀な将軍でも幕末の動乱期を乗り切ることはむずかしかったのかもしれません。 桂小五郎から「家康の再来」と評され、伊藤博文や渋沢栄一からも絶賛された人物ですが、西郷隆盛からは「決断力に欠ける」と見られていたようです。
- ブログ
【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府14代・徳川家茂――血筋で選ばれた貴族的将軍 1846年~1866年
公武合体政策のために結婚した皇女和宮と徳川家茂のふたりはとても仲が良かったようです。家光の妹・和子と後水尾天皇の仲も良かったと伝わることから政治的な影響はともかく幕府の公武合体は、当人たちにとっては幸せだったみたいですね。
- ブログ
【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府13代・徳川家定――趣味は料理の「癇癖将軍」 1824年~1858年
家慶の子である家定は「癇癖将軍」と呼ばれるほど、不安定な将軍で、幕末の混乱を乗り切れる器ではありませんでした。 料理が趣味で、平和な時代ならまたちがった評価だったのかもしれませんね。
- ブログ
【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府12代・徳川家慶――幕政にかかわらなかった「そうせい」様 1793年~1853年
徳川家慶は歴代将軍の中でもリーダーシップを発揮できなかった人ですが、この動乱期に将軍職についたこと自体がとても不運だったのでしょう。 江戸幕府にとって最大の危機といえるのが彼の時代に起きたペリー来航です。
- ブログ
【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府11代・徳川家斉――40人の側室、55人の子をもうけた好色家 1773年~1841年
子だくさんでオットセイ将軍の異名を持つ11代将軍・徳川家斉は、在職期間50年と歴代の征夷大将軍の中でも最長記録保持者でもあります。 また秀忠以来となる太政大臣への昇任など記録ずくめの将軍でした。