- ブログ
勢力を拡大せず、むしろ関ヶ原の戦いによって大幅に削減されてしまった毛利家ですが、とはいえ吉川広家らの貢献や犠牲により家を潰さなかったからこそ、幕末のリベンジがあったわけで、家を遺すというのはほんとうに大事なことなんだなと思いますね。
- ブログ
急拡大した勢力が包囲網にさらされるというのはのちの織田信長に似てますね。元就が存命であれば対処できたかもしれませんが残念です。 またその孫の輝元が信長包囲網に加わるというのもおもしろいですね。
- ブログ
桶狭間の戦い、河越夜戦と並び、日本三大奇襲のひとつとされる厳島の戦いは3つの中でもっとも入念に準備された奇襲だといえます。ターゲットの陶氏(大内氏)以外に、尼子氏、少弐氏、村上海賊などにも策を講じて万全の状態で決戦を挑みました。
- ブログ
【10大戦国大名の実力】毛利家②――安芸の国衆から戦国大名へ飛躍
尼子氏と大内氏にはさまれた国衆にすぎなかった毛利氏が元就の才覚によって戦国大名になっていく流れは見事ですね。 とくに1550年(天文19年)におこなった毛利両川体制の確立と井上元兼とその一族の排除は大きな転換点となりました。
- ブログ
【10大戦国大名の実力】毛利家①――組織を守るために何をすべきか
毛利元就が大江広元の子孫であることを知らない方も多いかもしれませんね。 元就は兄・興元の嫡男・幸松丸がわずか2歳で家督を継いだ際にその後見人をつとめたのですが、その幸松丸が9歳で死去したため、27歳で家督を継ぐことになります。
- ブログ
榎本先生が結論で述べられているように、武家や国衆ではない庶民の出で大名化したのは斎藤家や豊臣家くらいで、戦国時代は下剋上の時代とはいってもそれなりの基盤がないと成り上がることはむずかしいのですね。 斎藤家4代の物語は非常に興味をそそられます。
- ブログ
武田家などの例もあるように、親子の対立は戦国時代ではさほど珍しくないのですが、追放ではなく殺してしまったという点が斎藤家の特徴であり異端な点だと思います。 その義龍は信長の暗殺を企てたと『信長公記』に残っていますが、父・道三に目をかけられた信長へのジェラシーもあったりしたのでしょうか。
- ブログ
斎藤道三の国盗りが父親との親子二代にわたるものであったとする発見は、北条早雲=素浪人説の否定と同様に近年における大きな定説の転換ですよね。 歴史研究家のみなさんのおかげですが、こうした定説が上書きされる時代を生きるのは幸せなことです。
- ブログ
織田家の面々が生き残ることができたのも、信長が被害者でありその死を惜しむ人が多かったということなのかもしれませんよね。万人恐怖な存在だったら息子や兄弟は皆殺しでもおかしくないので。
- ブログ
信雄が養子に入った北畠家は伊勢国司の名門であったのに対して、信孝が養子に入った神戸家は国人領主にすぎないので、もともとこのふたりの織田家内での格差は大きかったと思います。 ただ信長もこの格差を是正することを考えており、信孝を四国攻めの総大将に任命し、征服後には讃岐一国を与えようとしていたそうです。
- ブログ
のちに信長が飛躍する基盤をつくり、自身も「器用の仁」や「尾張の虎」と称された織田信秀の存在こそ織田家にとって最重要人物かもしれません。その父(信長の祖父)・織田信定が津島を手に入れ、二代にわたって高めた経済力がなければ信長の快進撃はなかったでしょうね。
- ブログ
【10大戦国大名の実力】織田家②――尾張における下剋上と弾正忠織田家の台頭
守護の勢力が弱まり、守護代が権力を握っていく構図は下剋上そのものですが、織田家もまた尾張守護・斯波氏から実権を奪った守護代でした。さらにその織田家内部の争いも起こり、のちに信長を輩出する弾正忠織田家が台頭することになります。
- ブログ
【10大戦国大名の実力】織田家①――後継者の実力で組織の命運は決まる
織田家が平氏の子孫かどうかについては諸説ありますが、越前にある神社の神官の家系であることはまちがいなさそうです。越前朝倉家を滅ぼしたとき、信長はどんな気持ちだったんでしょうね。 ちなみにぼくは「歴女」という言葉は好きではなく、自分で書く文章では極力使わないようにしてますが、本コラムは原著のまま記載することにしました。
- ブログ
信玄自身も最強クラスである上に、家臣にもパラメーターの高い名将ぞろいなのでゲームだと天下統一しやすい武田家ですが、現実はゲームほど単純ではないので利害調整がうまくいかなかったり、家督をめぐっての争いがつづいてしまったのが敗因でしょうか。
- ブログ
こうして振り返ってみると、武田家って親子間で家督継承をめぐってのクーデターが何度も起きてますよね。まあこの時代、それなりの規模の武家であればこうした跡目争いは珍しくもないのでしょうが。 また武田勝頼は過小評価されがちですが、彼が武田家の最大版図を築いたことはもっと評価されるべきかなと。
- ブログ
【10大戦国大名の実力】武田家③――クーデターにより家督を継承した信玄
父・信虎をクーデターにより追放した晴信(信玄)ですが、基本的には父の戦略を継承していったように見えます。甲斐は地政学的に北にも南にも敵を抱えていたため、信玄は政略と戦略の両方を駆使して勢力の拡大に成功しますが、西上作戦の途中で病死します。 数多くある歴史のIF(もしも)の中でもこのとき信玄が死ななければというのはトップクラスのIFですよね。
- ブログ
武田家の本拠として知られる躑躅ケ崎館を築き、城下町を整備したのが信玄の父、武田信虎です。 近年では甲府駅北口に武田信虎の銅像が建立されたり、映画『信虎』も公開されましたね。
- ブログ
【10大戦国大名の実力】武田家①――名門の長所と短所は背中合わせ
武田信玄で知られる武田家は「新羅三郎以来」の名門ですが、甲斐の武田家以外に安芸と若狭にも武田家があったことは知っておきたいですね。 ゲームだとそれぞれ独立大名として選択できることも多いですし。
- ブログ
【10大戦国大名の実力】北条家⑥――北条家は減亡を回避できたか?
歴史のIFを考えるのは楽しいものですが、北条家が秀吉に勝つ、あるいは豊臣大名として生き残るという道筋はなかなかむずかしいものがあるなと思います。逆に言うと家臣団を再整理したかった徳川家はともかく、上杉家は加増があったとはいえよく会津への国替えを受け入れましたよね。
- ブログ
小田原評定にネガティブなイメージが植え付けられたのは江戸時代の書物によるものですし、小田原征伐後も北条家は滅亡することなくその血筋を江戸時代に残したのにそう思われていないことなど、北条家に対するネガキャンはちょっとひどいものがありますね。