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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり
軍事拠点から政治拠点という流れは、かつての城柵への回帰へと見れなくもないのですが、象徴としての天守の存在が決定的に異なります。天守を見せることを考えると山頂にあるよりも、城下町と同じ地平面からそびえ立たせたほうがインパクトが強いですね。
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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化④兵農分離のせいで?
織田信長が農繁期も合戦できるよう常備軍をつくったというのは近年では異論も提示されていて、むしろ武田信玄・上杉謙信・北条氏康といったひと世代前の大名たちも年中、戦をしていたとされます。ただこのあたりも「兵農分離」の定義によるところが大きく、ゆるやかな時代の変化の中で信長が制度化して確立していったのかなと。
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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化③後詰決戦に備えて?
大名の支配領域が増え、最前線となる支城網が整備される反面、それは兵力分散となり敵国からの攻撃目標が増えてしまいます。そこで迅速かつ効率的に救援しやすい平城にシフトしていったという説はおもしろいかも。
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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化②鉄砲が登場して戦い方が変わった?
鉄砲が合戦のカタチを変え、合戦が変われば主要な攻撃目標であるお城も変わるよね、という話。 なるほどと思いつつ、どちらかというと攻撃側の動員兵力と守備側の保護すべき領民の数が巨大化していく中で詰城に逃げ込むことが現実的ではなくなったのではないかという気もします。
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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化①経済・政治上の都合から?
近世城郭の条件として、城下町の形成・拡張が可能かどうかというのはよく聞きますね。 支配領域が広くなれば攻城戦(籠城戦)の機会も減り、むしろ経済を重視せざるを得なくなったという背景もあるでしょうし、増加する人口を受け入れるためにも城下町の発展が不可欠だったのでしょう。
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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史⑤――農民も城を持っていた!?
農民の城というのは知りませんでしたが、村長が城主ってことになるんでしょうか。 攻城団のデータベースに登録していくかはさておき、城の定義はほんとにむずかしいなと思いました。
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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史③――本城と支城の微妙な関係
本城と支城――支配領域が広がるにつれて、戦国大名は領国全域をカバーするために支城網を整備します。スムーズに援軍を送れるよう街道を整備したり、緊急時の連絡がすぐにできるよう狼煙台(烽火台)なども設けられました。
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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史②――統治拠点と防衛拠点
戦国時代の城は「平時の居館、戦時の詰城」というセットで運用されることが多かったのですが、これは攻め込まれることを想定したリスク対策でもありますね。全国には山城の麓にあった居館跡が城主の菩提寺になっていることも多いので、訪問時にはチェックしてみることをオススメします。
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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史①――古代の集落から、拠点としての城ヘ
土に成ると書いて城――という説明を聞いことがある人も多いと思いますが、城とは基本的に土塁と空堀によって築かれていました。ただそう単純な話ではなく、城の歴史を振り返ってみると、環濠集落・古代山城・城柵といった城のルーツにあたるものから、鎌倉時代には武士の居館が登場し、さらにゲリラ専用に山城なども築かれました。
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家を遺す上でもっとも大切なことは「強者に目をつけられない」ことです。権力者に媚びるために偏諱を賜うとともに、権力者が交代してしまうとその子を廃嫡するというのはなんとも残酷な話ですが、それが戦国の世を生き抜く術だったのでしょうね。
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こうして島津家の歴史を振り返ってみると、島津忠良(日新斎)にせよ、島津忠恒にせよ、本家・嫡流以外が宗家を継いでいるんですよね。嫡子がいなかったとはいえ、一族を見渡して優秀な人材を後継者に任命してきたからこそ幕末まで生き残れたのかもしれません。
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朝鮮の役で朝鮮・明軍から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられ、関ヶ原の戦いでは見事な退き口で東軍に衝撃を与えた義弘でしたが、もし当初の予定通り彼が伏見城に入っていたら、籠城する鳥居元忠たちと討死していた可能性が高そうです。
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この時点の秀吉に対抗できる勢力はもはや日本国内には存在していなかったと思いますが、それでも島津家はかなり激しい抵抗をしています。 それもあってか降伏後の秀吉の処遇は次の北条氏と比べるとかなり差がありますね。
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【10大戦国大名の実力】島津家③――島津四兄弟による九州統一戦
三州の覇者となった島津家はそのまま九州統一に動きます。個性の異なる兄弟が各方面で活躍することで大友氏や龍造寺氏を倒し、勢力を拡大しましたが、彼らが得意としていたのが「釣り野伏せ」と呼ばれる囮戦術でした。
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【10大戦国大名の実力】島津家②――島津忠良の相州家継承と貴久の島津宗家継承
島津家中興の祖・島津忠良は島津氏の分家である伊作家の出身です。彼が息子・貴久を島津宗家の養子にしたことで島津家の躍進が始まります。忠良が息子を後見するため出家して日新斎を名乗ったのはまだ33歳だったんですね。
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【10大戦国大名の実力】島津家①――リーダーシップはどうあるべきか
鎌倉時代から江戸時代まで薩摩を支配しつづけた島津家の歴史は戦乱からはじまります。一族内の争い、周辺の伊東氏や相良氏、肝付氏らとの争いと常に戦いの中にあった印象です。
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【10大戦国大名の実力】長宗我部家④――負のスパイラルを止められず
長宗我部元親ははたして信長の言うとおり「鳥なき島の蝙蝠」にすぎなかったのか、あるいは秀吉や家康という鳥が大きすぎたのか、いずれにせよ(信親を失う不運もありましたが)土佐から天下を狙うには少し遠かったのかもしれませんね。
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【10大戦国大名の実力】長宗我部家③――九死に一生を得るものの
信長との対立から二度目の滅亡待ったなしの長宗我部家でしたが、本能寺の変により九死に一生を得ます。立て直した元親は四国統一に向けて再スタートしますが、羽柴秀吉が大軍を差し向けたため降伏することになります。 その後に起きた嫡男、信親の討死も不幸な出来事でしたね。
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父・国親は「野の虎」とまで称された武将でしたが、その子どもである長宗我部元親は当初「姫若子」と軽視されていました。しかし初陣で活躍すると家中の評価も一変し、その後は父以上の才覚を見せて勢力を拡大していきます。
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【10大戦国大名の実力】長宗我部家①――イノベーションの遅れは致命傷①
始皇帝の子孫という説もある長宗我部家は、一度滅亡しながらも戦国時代に再興して土佐を統一し、さらには四国を平定するまでに復活したドラマチックな武家です。 長宗我部元親が有名ですが、じつはそのお父さんの長宗我部国親もすごい人でした。