麒麟がくる

御屋形 攻城団編集部

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」を楽しんでいる方のためのルームです。誰でも参加できます。

麒麟がくる

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終了日 2021-02-15 12:00:00まで 自動延長あり


01/11 08:31
藤式部卿さん

十兵衛が「敵は本能寺にあり!」と叫んでOPタイトルに繋がり、そのままエンドロールで完…うむむ。余談ですが、染谷信長は歴代大河の中でもかなり怖いと思います。


01/11 09:22
片桐且元さん

菊姫さん、「いつもだと皆さん主郭を目指すのに……」とおっしゃっていることから推察するに、僕がちょくちょく出向く、小牧山城のように、よくいらしてるんですか? 信貴山城に。実は今回の大河ドラマで、吉田剛太郎さん演じる松永久秀のファンになってしまっているようなので(自分の事なのにそういう表現が妥当)信貴山城にも、ぜひ行きたい。そういう人たちが、松永久秀の館跡をめざしたのか……と。


01/11 09:29
片桐且元さん

「自分の誇りを忘れるな。俺はどこかに忘れてきてしまった。十兵衛に伝えたい……」「十兵衛畏れ入ったか!」……光秀の妄想か、回顧か。そして、光秀の「これは松永久秀のワナだ!」は光秀の心の真髄に共鳴する松永さんの信念の鐘の音を自らこのように叫んでしまったのか……


01/11 10:24
菊姫さん

片桐且元さん,多分皆さん前回の予告みて、終焉の地(天守の可能性もありますが)見に?
若い方はスマホ、年配の方は観光マップを指して「ココですよネェ屋敷跡って?」
「ハイ、そこです」と答えると皆さんがっかりした顔をされます。
あの松永久秀の屋敷ですから安土城か大和郡山城の様に石垣、礎石を期待されていたみたいですが
杉の木が生えたよくある曲輪先端部で、ただの平地(土塁なしの曲輪)ですから
私もここが目的ではなくて平成に成って発見された信貴山城の支城の一つで「謎の支城」と言われる大和・赤阪城だったんですけど
ネットにも殆んど載ってなくて、野城だから時間多めに取ってたのにサクッと終わってしまって
そこで、放送当日ですから本城で夕日でも見る?みたいな感じでした。


01/11 14:08
hiro.Eさん

史実では、10月1日に明智光秀、細川藤孝、筒井順慶らが松永方の支城の片岡城を落とす。3日織田信忠を総大将に佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀ら4万の軍勢が信貴山城に着陣。5日総攻撃。同日久秀の孫=久通の子2人の兄弟が六条河原で斬られる。10日落城。『多聞院日記』には「昨夜、松永親子腹切自焼了」と書かれる。弾正の最後の記載はこの程度で爆死は後の脚色。大仏殿を焼いた当日と落城が同月同日だったため、世間では神罰と噂されたようです。


01/11 18:01
hiro.Eさん

そう考えると10月1日に役者が揃っているので、このお三方で何かのシーンがあればよかったかなあ。


01/11 18:17
片桐且元さん

hiloEさん、そうなんですか?待つさんの爆死は後からの創作……けっこう、そういうのはありますね。じゃあ、今回の大河ドラマは時代考証も含め、けっこういけてるかも。脚本は、めちゃ面白いし。少々後半、走りすぎてる感もありますが、それは仕方ない。
菊姫さん、納得です。大河から少し脱線かもですが、この場をお借りして、菊姫さんあっぱれ!といつもいつも思います。今回も北海道、東北、そして僕の実家のある、瑞浪市、土岐市辺り等、攻城が半端なくすごい!以前紹介してもらった、越前の明智光秀関係の場所にも、まだ行けてない僕は、菊姫さんのその動きを見て、「よしっ!俺も……」なんて勇気もらいますが。


01/11 18:27
片桐且元さん

hiro Eさんでした。
本日僕は、信長が元服した城であり、父親の信秀の居城であった、古渡城跡を攻城しました。城址碑のある、東本願寺にももちろん行きましたが、堀の一部が池として残っている、下茶屋公園で信長公の事を考えていました。光秀が信長公を殺さなく、最初の頃のような思いで、「大きな国」を築くこと、出来たはずだと、信長公の変化がこうでなく、歯車が狂うことなければ……しかし、歴史はもうすでにおきてしまった後の話で……
写真は、古渡城の堀の一部。このまわりでそんなことを考えていました。


01/11 18:29
片桐且元さん

信長公が手を焼いた、本願寺が古渡城の後に建っている事も、思えばなんと皮肉な事か!歴史のブラックユーモアか。


01/13 22:33
もかちーのさん

第40話の松永久秀の散り際シーン、いやもう、圧倒的すぎましたね。
どこのどのコメントを読んでも大絶賛で、誤解を恐れない言い方をすれば、
おそらく今大河の中で、賛否両論分かれることなく、視聴者のご満悦の声が聴けるシーンではないかと…。

第38話「丹波攻略命令」から、丹波の話が中断してしまったかのように感じていましたが、
そういうことではなくって、実に色々なことが同時に進行していたんですね。
丹波攻めと制覇を試みるにはそれだけの時間を要す...
その間に愛妻熙子さんの死や、松永久秀の壮絶死、諸々が描かれました。
ふと私が思い出すのは、熙子さんの、すこし周りの人と違う個性、というかセンスでしょうか。
南蛮人の衣装を試着して足元から出てきた十兵衛を、笑いを堪えずに見ていた岸、たま、それに左馬助でしたが、
熙子さんだけは、「お似合いですう♪まるで
本当の南蛮人のようです!」とか言って、その無邪気さというか、無垢なところも含めて十兵衛は深く愛していたんだろうなあ、と思います。
小和田メモ(小和田先生のNHKラジオ第2放送の連続講義/カルチャーラジオ歴史再発見)は、
今回は回を跨いでお送りいたします。
大河に沿って、解説を拾ったつもりですが、丹波攻略のことがまだ書けないため、虫食い状態であるのと、
解説を縮めようと私がした場合、おそらく小和田先生の分かりやすい解説をぶち壊しにしてしまうこと1000%予感なため、
すみませんが、長くなっています。

【小和田メモ】---------------------------------
2020.6.9.
明智光秀の実像に迫る(11)

とにかく丹波攻めを考えることで、6月に光秀にすぐに白羽の矢が立つということになる。
ただ、すぐに丹波に出陣しに行った訳ではない。ちょうどその後、7月の段階では、越前一向一揆
の戦いに(光秀が)動員されていく。越前の国、義景が信長軍に攻められて、天正元年の8月に朝倉は滅びた。
そのあと、朝倉の家臣だったものを越前の守護代のような形で任命したが、その後内紛があり、また越前の
一向一揆の力が非常に強くなり、一揆持ちの国になっちゃった。それを討たなければ、ということで柴田勝家たちが、
あるいは前田利家が、あるいは羽柴秀吉が動員されるのだが、それにも光秀が動員された。だから丹波攻めの大将を
命じられた後に、越前攻めを間に挟んだものですから、すぐには丹波の方に兵を送るわけにはいかなかった。
この時、越前を平定しただけではなくて加賀にもすこし攻め込んで行く。加賀の手鳥側という川の南の方、
その部分の代官を光秀が任命されたという資料がある。
そういった意味では信長から見て、光秀は「こいつは使えるな!」という思いがすごく強かったんではないかと思います。


2020.6.16.
明智光秀の実像に迫る(12)
信長による足利義昭追放のあと、光秀の立場が政治的にどうだったのかということで、よく言われるのが「近畿管領」。
この職名は、実は室町幕府の職名にはない。関東管領や九州探題というのはある。高柳光尋先生という人が昔いて、
本を書かれて、その中で「近畿管領」という書き方をしていた。
光秀の与力大名、細川藤孝、筒井順慶、一色義有、あるいは池田恒興、中川清秀、高山右近、つまり京都・大阪・
奈良、このあたりに土地を持っていた大名たち、みんな光秀の元にいた。といってもみんな光秀の家臣だったというわけでは
なく信長の家臣。信長の家臣なんだけど、皆、光秀の旗の下で活躍する、そんな言われ方をしている。
近畿に住んでいるものですから、高柳先生は「近畿管領」という言い方をされたのでは?と思う。
もう一つ、足利義昭が追放された後、光秀がかなり京都市中の裁許(裁判沙汰)にも関わってきている。当時、信長が
足利義昭を追放した後、京都を任せたのは有名な、村井貞勝という武将は天下所司代という言われ方をしている。信長公記
には、天下所司代と出てくる。京都市の行政・司法をはじめ、公家や寺社の訴訟などに関与している。そのトップについていたのが
村井貞勝。たぶん、村井貞勝一人じゃ大変だろうなあということで、その補佐役として光秀を指名している。京都代官という
言い方になると思う。朝廷とか公家との人脈もあった。つまりまだ室町幕府が、足利幕府があった頃は、光秀はいわゆる
将軍の家臣でも幕府の一員だったわけですけども。そういった過去の経験が、たぶんこの時の信長による光秀抜擢には関係が
あったんではないかなと思っています。実際に裁判が起こったりした時に、村井貞勝と光秀が同席している。裁定を下す、ということもありましたので、
当時の資料にも両代官(二人の代官)という、そんな言い方をしています。ところが、1575年からは、丹波攻略の中心に据えられるので、
京都のいわゆる代官からは身を引くという形になって参ります。ただ、この後、天正3年、有名な長篠下が原の戦いのあと、
織田軍が越前・朝倉攻めに向かいました。その朝倉攻めを済ませた後、加賀の一部まで信長軍が攻め落とします。
その時に、信長は光秀を加賀の代官に抜擢している。そういった意味で言うと、光秀は丹波攻めの対象を命ぜられながらも、
今度は加賀の代官までするということで、言ってみればかなり人使いの荒い信長の元で、かなり右往左往したんじゃないかなあ、
という風に思っています。
そしてもう一つ、注目されるのが天正4年くらいからになるが、大和の支配にも関わって参ります。で、なぜかというと、
天正3年(1575年)3月に家臣の塙直正(原田直正)に大和の支配を任せていたのだが、天正4年の5月3日に本願寺の闘いで、
塙直正が討ち死にしてしまった。その後、天正5年には松永久秀が信長に反旗を翻していて、大和支配がちょっとにっちもさっちも
行かなくなる。ということになり、その時に丹波攻めの有力な信長家臣として主な仕事を与えられていた光秀が大和の
支配にもかかわるということになった。
これが天正4-5年にかけてなんですけれども、ちょうどその頃、東大寺と興福寺(奈良の有名なお寺2つ)が
争うことになったんですね、「戒和上」と言いましてね、その権利を任命する、争うことになる、その時の記録が
関西学院大学の早島大祐教授が見つけた資料なんですけど、これにかなり詳しい、この頃の争いの法廷闘争のいきさつが
書かれているんですけども、その争いを裁定(審判を下した)のが光秀という資料が出て参りました。ですから、この頃、
光秀は丹波の計略にも関わる、大和の争いにも首を突っ込むということで、まあ、信長からはかなり色んな仕事を押し付けられたいた、
というとちょっと変かもしれませんが、それだけ信長の家臣の中では有能だったために、信長から色んな仕事を
押し付けられていたという側面があったのではないかと思います。それは本能寺の変に至る、一つの大きな流れかなあ、と私は
考えています。

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