安藤家の分家は、宗家の初代・直次の弟の重信から始まっている。1611年(慶長16年)には酒井忠世、土井利勝らとともに老中として幕政に加わり、翌年に下総国小見川藩1万6千6百石を与えられた。その後、大坂の陣での論功行賞で2万石を加増され、さらに2万石の加増を受けて1619年(元和5年)、上野国高崎藩5万6千6百石に封じられる。
3代・重博のとき、養子への分与とさらなる加増の後、備中国松山藩6万5千石に転封となった。4代・信友のときには美濃国加納藩へ移るが、5代・信尹が贅沢にかまけて藩政をおろそかにし、領民が強訴を起こすという騒動があって減封を受ける。続く6代・信成のときに陸奥国磐城平藩5万石へと転封された。
磐城平藩安藤家の10代・信正は、幕末の混乱期における幕政の中心人物である。1860年(万延元年)、老中に任命され、外国御用取扱を任せられた。直後に桜田門外の変が起こり、大老の井伊直弼が暗殺されたため、信正が老中首座に就く。信正はポルトガルやプロイセン(当時のドイツ)と通商条約を結び、アメリカ公使館の通訳・ヒュースケンが攘夷派浪士に暗殺された事件の処理、小笠原諸島や対馬などを日本領として確認するなど、数々の問題に対処した。一方で関宿藩主・久世広周とともに公武合体政策を推進し、皇女・和宮を14代将軍・家茂に嫁がせることに成功している。
しかし、これらの事績が尊王攘夷派の浪士の反感を呼び、1862年(文久2年)、江戸城坂下門で浪士の襲撃を受けて負傷した(坂下門外の変)。その後、薩摩藩において藩政の実権を握る島津久光らによって老中を罷免される。
信正は家督こそ嫡子の信民にゆずったが、藩の指揮は変わらずに執り、徹底的な佐幕体を維持した。このため、新政府軍の攻撃を受けて敗走し、仙台まで逃亡するものの、降伏。永続の蟄居を命じられた。
磐城平藩安藤家は信民が幼くして死去し、養子の信勇が後を継ぐ。信勇は鳥羽伏見の戦いの後、新政府軍に恭順する意志を表明した。版籍奉還後、信勇は磐城平藩知事に任命される。その後、隠居した信勇は学習院の書道教師となり、大正天皇の教育にも当たった。
信勇の養子で、信正の八男に当たる信守が、後に子爵位を授けられている。