宗龍寺中門跡を南から北へ望む。
往時は写真中央辺りに境内の前を横切るかたちで濠があった。『慶長御積絵図』や『寛永御城并小路町図』までは濠が二重になっており、濠と濠との間に東西に細長い中島があったようだがその後の『正保御城下絵図』では姿を消しているため境内か東西の門前かのどちらかに吸収されたものと思われる。
『高傳寺其外御堂参之一通』の宗龍寺の項にある挿絵図では中門の位置までは分からないが、佐嘉城城下に残る他の寺院の特徴からして橋を渡ってすぐの位置にあったと思われる。なぜなら現在でも境内の前に濠があり、門前にかかる石橋を渡って境内へ入るという城下絵図時代のままの特徴を備えた寺院が佐嘉城城下には多く存在するためである。
挿絵によると中門は境内側に引き込んだ位置にあったようで、その両翼に塀が接続し一旦前方(南側)に出た後で東西両側へ伸びるといった構造になっていたようだ。塀は挿絵を見る限りにおいては築地塀か瓦塀のように見える。
周辺の構造物は失われているが佐嘉城城下は地割が破壊されないままよく残っているため往時の場所を特定しやすい。
佐嘉城北東隅を東から西へ望む。 北東隅から西御門までの一帯は現在駐車場となっているが、ちょうど埋められた部分のみが駐車場になっているような状態で土塁や地割りなどはそのまま残っており北東隅の部分もこうして現存している。 土塁の高さは『寛永御城并小路町図』によると二間(3.6m)とあるが風化と地面の上昇によりかなり高さが減ってしまっているように見える。地面から二間であるため濠の水面からはもう少し高さがあったかと思われる。 北東隅ははじめ納富鍋島家の屋敷地でその後元鷹屋屋敷となった。 訪れた頃は夏草が繁茂しており石搦は確認できなかったが角部の角度が維持されていることから現存しているものと推察される。
宗龍寺北側に残る北濠の一部を東から西へ望む。 写真左側が宗龍寺で中央の水路が現在残る北濠の一部である。 濠幅は寛政八年(1796年)に作成された『御城分間絵図』によると八間二尺(約15m)とあるため、現在の宗龍寺側の濠際から北側(写真右側)に向けて15mの幅があったことがわかる。そしてその幅の濠が佐嘉神社交差点角の中央ほどまで伸びていた。
宗龍寺本堂の棟を東から西へ望む。 本堂の棟には龍造寺家の十二日足紋と鍋島家の杏葉紋があげられている。写真は棟の中央にある十二日足紋でその両サイドに杏葉紋がある。 照らされた瓦の鈍い光が美しいが桟瓦であることだけが唯一残念である。今度葺き替える時は是非本瓦葺で葺き替えていただきたい。 佐嘉城城下の寺院は宗派によらず由緒のある寺院は今でも各宗派の寺紋ではなく鍋島家の杏葉紋があげられており、さらに龍造寺家との縁の深い寺院は十二日足紋が並んであげられている。あの日蓮宗でさえ本行寺では橘の紋と並んで杏葉紋があげられているほどである。生え抜きの大大名の影響力はやはり凄いものだ。
宗龍寺本堂を南東から北西へ望む。 正式名称は金剛山宗龍禅寺といい、明治四年(1872年)に高伝寺に改葬されるまではここが龍造寺隆信の菩提寺だった。寺号は隆信の法号である法雲院殿泰巌宗龍大居士に因む。ちなみに古文書の中での龍造寺隆信は法雲院様や宗龍様と呼ばれている。 現在本堂山門共に東向きだが往時は南向きであり『高傳寺其外御堂参之一通』の宗龍寺の項によると撮影地点は本堂の南東角から回廊になった廊下が接続する辺りだったようだ。配置としては境内の北西角辺りに御廟があり、その南東に本堂、その前に回廊がありそれが南側の二階門に接続していたようである。
宗龍寺の東側を北から南へ望む。 写真右側に写る塀が宗龍寺の東面である。現在宗龍寺の山門は東側にあり本堂も東向きだが往時の山門は南側にあり本堂も南向きだった。 写真に写る車道の部分は元は濠であり、その幅が記載された城下図は見つからなかったが北側の濠の八割程度であるため車道の幅分(3車線)がそのまま濠であったと推定される。 写真中央に写る横断歩道あたりが宗龍寺の南東の角であり、その奥には白石鍋島家の広大な屋敷地が広がっていた。 宗龍寺に至る道は佐嘉城の東御門から土橋を渡った所の北側にある山門を通り、東西の門前を超えてふたつ目の門を通過、その先にある濠を渡ってさらに門を通るという厳重なものだった。
宗龍寺南東角を南から北へ望む。 写真中央の駐車場まで往時は宗龍寺の境内だった。現在の駐車場の敷地が宗龍寺のものかどうかは分からない。 手前のアスファルトの部分と写真右側の車道の部分は元は全て濠であり、北と西を佐嘉城の北濠で、南と東をさらに別の濠で囲むという造りになっていた。 濠を挟んだ東隣(写真右側)は白石鍋島家の抱屋敷となっており、それが北側の車道を超えた辺りに残る濠まで続いていた。撮影場所の後方は本丸より広い白石鍋島家の屋敷地が広がっており、さらにその周辺にも濠に囲まれた抱屋敷があるといった格好だった。 城下絵図を見ると往時の佐嘉城北東部は南の御東のある島から白石鍋島家の屋敷地と宗龍寺、その東に広がる武家地を北東南と扇状に幅八間(14.5m)の濠とその一部を土塁で囲んだ巨大な出郭のような造りになっていたようだ。
宗龍寺中門跡を南から北へ望む。 往時は写真中央辺りに境内の前を横切るかたちで濠があった。『慶長御積絵図』や『寛永御城并小路町図』までは濠が二重になっており、濠と濠との間に東西に細長い中島があったようだがその後の『正保御城下絵図』では姿を消しているため境内か東西の門前かのどちらかに吸収されたものと思われる。 『高傳寺其外御堂参之一通』の宗龍寺の項にある挿絵図では中門の位置までは分からないが、佐嘉城城下に残る他の寺院の特徴からして橋を渡ってすぐの位置にあったと思われる。なぜなら現在でも境内の前に濠があり、門前にかかる石橋を渡って境内へ入るという城下絵図時代のままの特徴を備えた寺院が佐嘉城城下には多く存在するためである。 挿絵によると中門は境内側に引き込んだ位置にあったようで、その両翼に塀が接続し一旦前方(南側)に出た後で東西両側へ伸びるといった構造になっていたようだ。塀は挿絵を見る限りにおいては築地塀か瓦塀のように見える。 周辺の構造物は失われているが佐嘉城城下は地割が破壊されないままよく残っているため往時の場所を特定しやすい。
宗龍寺大門跡を南から北へ望む。 正面突き当たりに見える入母屋破風が宗龍寺である。往時はこの位置に大門がありここが唯一の参道だった。 大門から西側(写真左側)は土塀が付けられており、それが宗龍寺の西面と東御門に続く土橋の交差する地点まで続いていた。 大門の東側(写真右側)は往時は白石鍋島家の屋敷地となっており、西から来た通路は撮影地点から南(写真手前)に折れたあと現在の自由民主党佐賀県支部の地点まで進みそこから東へ伸びていた。また屋敷の敷地は撮影地点から西門前の中程まで続いており、屋敷と参道の間には1〜2間ほどの濠があったようだ。ちょうど白石鍋島家の屋敷地が西御門のルートに覆いかぶさるような格好になっている。 ちなみにこの一帯ははじめ鍋島直茂の腹心にして治水の神様として知られる成富兵庫茂安の成富家が当てられていた。その後男子に恵まれなかった成富家に養子として出され養育されていた鍋島直弘が復籍したのち一家を創設、成富家の屋敷地を引き継ぐかたちでこの地におさまった。 どうやら参道自体は当時の城下絵図や周辺に残る不自然に細長い区画から推測して現在見られるものよりも広かったようだ。
万部島を北東から南西へ望む。 名前の由来は龍造寺隆信の曽祖父である龍造寺家兼が法華経百万部を読誦し法躰となった際に経典をこの地に納めたことに由来する。『城下大曲輪内屋敷町(元文五年/1740年)』によると萬部嶋と記されており今と同じく東を正面としている。 家兼の時代には本家である村中龍造寺家の村中城(現在の佐賀西高校一帯)や分家である水ヶ江龍造寺家の水ヶ江城(現在の赤松小学校一帯)からも遠く離れた小さな島だった。佐嘉城および城下の整備が行われた後も長らく島だったようだが『承応佐嘉城廻乃絵図(承応三年/1654年)』の時点で向陽軒のある島と一体化していることが確認できる。 現在では石塔側に入り口が設けられているが『御社参絵図』の万部島の項にある挿絵図によると往時は東面中央に唐破風様の破風のついた門が構えられておりその両翼に瑞垣が付けられていた。 境内中央には拝殿があったようで、その奥には中央に英彦山、南側(写真左側)に山王社、北側(写真右側)に東照宮がありその斜め奥に稲荷社が祀られていた。稲荷社は現在でも往時と同じ場所に存在している。 境内奥の北側と南側に2基の六地蔵塔があり南側のものが天文二年(1533年)、北側のものが天文四年(1535年)の記銘を持ち龍造寺家兼所縁のものといわれている。
万部島を東から西へ望む。 龍造寺家兼所縁の聖地である。『直茂公譜考補』によると龍造寺家兼は永正二年(1505年)より法華経一万部の誦読を開始し天文七年(1538年)に結願。堀江兵庫助と野田兵部丞を奉行に、高城寺登岳和尚を導師として『剛忠』を名乗り法躰となった。その時に経箱を埋納したのがこの万部島である。 名前に名残があるように古くは島であり佐嘉城から船で渡るか、裏御門を抜けて御東(後には向陽軒)の参道を通り門や神橋、いくつもの鳥居をくぐって参拝する神聖な場所であったようだ。現在でもこの辺り一帯は宅地化が憚られており往時の島の形がはっきりと残っている。 写真中央から右手に奥から整然と並んで見える11基の石塔が歴代藩主による法華経一万部読誦の結願石塔である。台石から蓮華台、竿石まで時代を超えてすべて同じ意匠で揃えてある。一番奥にあるのが初代藩主の勝茂、手前から二つ目が鍋島閑叟の号で知られる直正、最も手前のものが最後の藩主である直大のものになる。 なお藩祖とされる鍋島直茂は最後まで龍造寺家の宰相という立場であり続けたためこの石塔の中には含まれていない。また共に戦場を駆けた隆信も同じくこの中には含まれていない。不思議な縁である。
二ノ丸東側の東濠を北側から南へ望む。 写真右側が復元整備された部分で、遊歩道を挟んで左側が水路として残っていた東濠の一部である。 二ノ丸側は濠側に遊歩道が付けられているためその歩道の幅分若干狭くなっている。 中央の遊歩道を無いものとしてみた場合の広さでも往時の約3分の2の広さしかなく、本来はもっと東側(写真左側)まで濠が広がっていた。 どう考えても濠の中の遊歩道はいらないと思う。精力的な復元整備の姿勢は大変素晴らしいが全体的に遊歩道が多過ぎる。建前上公園として整備しなければならないのは分かるがやりすぎな感は否めない。予算の出所などの関係もあるのだろうが公園としてではなく史実に基づいた整備へ思想を転換してもらいたいと思う。
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おそらく、八王子城の解説本の中で最も重要な一冊でしょう。
八王子城跡が現在のように整備されたのは、落城400年にあたる1990年以降のことです。本書の出版も同時期で、出版後に発見された遺構もあれば、今は目にすることのできない遺構も多数あります。言い換えると、1990年当時の八王子城跡の姿を記録した書であるとも言えます。八王子城に興味を持ってくださった方にはお薦めの一冊です。すでに廃刊となっていますので、古書店か図書館で探してください。
トンネル工事や台風・地震などにより、現在は失われてしまった石垣などの貴重な写真も多数掲載されていますが、白黒で小さいため分かり辛いのが残念。
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