南西角櫓台を北側から南へ望む。
本丸の天守台や櫓台、石垣などは慶長年間に築かれたものだが、この南西角櫓台のみ時代が降って修築されたため様相が全く異なっているせいで佐嘉城でもっとも見当違いな指摘をしている人が多い箇所だろう。
元の櫓台は元文三年(1738年)に崩れたため、その後幕府の許可を得て寛保年間に修築されている。建前上はあくまで修築だが実態は基礎工事から作り直した事実上の新造で、地中にもその時に築かれた石垣が4〜5段分現存している。
連続して続く慶長期の石垣も同じく地中に現存しており、こちらは2〜3段分残っている。
初代藩主の鍋島勝茂が本丸に入ったのが慶長十六年(1611年)、寛保年間が1741年〜1744年なのでふたつの石垣には130年以上の時間的開きがあることになるため様相が違って当然である。
石垣の見た目という点では寛永十三年(1636年)に築かれた江戸城牛込御門の石垣がこれと同じ色違いの石を切り込み接ぎで築いたもので外観がよく似ている。
南西角櫓台を北側から南へ望む。 本丸の天守台や櫓台、石垣などは慶長年間に築かれたものだが、この南西角櫓台のみ時代が降って修築されたため様相が全く異なっているせいで佐嘉城でもっとも見当違いな指摘をしている人が多い箇所だろう。 元の櫓台は元文三年(1738年)に崩れたため、その後幕府の許可を得て寛保年間に修築されている。建前上はあくまで修築だが実態は基礎工事から作り直した事実上の新造で、地中にもその時に築かれた石垣が4〜5段分現存している。 連続して続く慶長期の石垣も同じく地中に現存しており、こちらは2〜3段分残っている。 初代藩主の鍋島勝茂が本丸に入ったのが慶長十六年(1611年)、寛保年間が1741年〜1744年なのでふたつの石垣には130年以上の時間的開きがあることになるため様相が違って当然である。 石垣の見た目という点では寛永十三年(1636年)に築かれた江戸城牛込御門の石垣がこれと同じ色違いの石を切り込み接ぎで築いたもので外観がよく似ている。
宗龍寺を北西から南東に望む。 佐嘉城の鬼門の位置にあり、寺の南側にある白石鍋島家の屋敷地と合わせて城の東側北半分の防衛に備えた出郭のような性格を持つ。 現在南北と東側の濠は埋められてしまっているが往時は北側と西側を佐嘉城の北濠に囲まれており、東側と南側も濠で囲まれていた。 現在も西側の半分ほどは濠に囲まれた往時の姿が残っており、写真中央左の水色の柵の位置に北側の濠の一部が残る。北側の濠幅は現在残る濠際から北側の国道の中程あたりまで幅があり、長さは佐嘉神社交差点角の中央あたりまで伸びていた。
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