生田緑地東口ビジターセンターでは、城趾を含めた桝形山のジオラマが見られます。 桝形城址から右上の横穴墓群に向けて尾根を移動した平坦部が「飯室山出城」です。 本来は天然の堀の役割をしていた多摩川等、広範囲で展示されていますが、ガラスケースの反射の関係で一部しか収められませんでした。
桝形山展望台から尾根沿いに5分程北東に歩くと、広い平坦地に辿り着けます。
・桝形山の名の由来 ・鎌倉時代に稲毛三郎重成が枡形山を城とした事。 ・永正元年(1504)には、山内上杉氏の討伐を狙っていた北条早雲が枡形城に入った事。 ・武田信玄が小田原へ出兵してきた時、この土地の豪族であった横山式部少輔弘成が、枡形山に土塁を築いて後北条氏の為守り を固めた事。 ・・・等が記されています。
展望台内の階段には写真のような多くの解説が掲示されています。エレベーターもありますが、階段がお勧めです。
展望台内の遺構図を元に探訪。 図による「C-Dライン」上の堀切です。 桝形門を出て、案内板の中央広場方面に進んだ地点です。
展望台広場から「向ヶ丘遊園駅」方面の標識が出た坂道を5分程降りていくと辿り着きます。 門には「稲毛領主 稲毛館跡」と記された木標があります。
展望台から向ヶ丘遊園駅方面に5分程坂道を降りた所にあります。 時間を忘れて、何百年も前にタイムスリップしたような閑静な境内です。 写真の観音堂の裏の右奥の少し高台になった所に、「稲毛三郎重成の墓」と云われている五輪塔があります。
左の石碑には稲毛三郎について、 ・源頼朝の御家人で、畠山重忠とは従弟。 ・妻は尼将軍北条政子(頼朝の妻)の妹。 ・・・の旨が記されています。
・建久六年、妻が病死すると重成は出家し廣福寺を氏寺として中興。 ・建久九年、妻の三回忌供養に相模川に(馬入橋)を架橋し橋供養とした……と、記されています。 この【馬入橋】ですが、 頼朝がこの橋の竣工式に出席した帰路に 、平家(又は義経)の亡霊に驚いた馬が暴れて川に落ち、それが原因で翌年に亡くなったという説があります。そして、この橋の橋脚が関東大震災の液状化現象により茅ヶ崎市下町屋1丁目に出現し、現在では天然記念物に指定されています。興味のある方は「旧相模川橋脚」で検索してみて下さい。
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