石碑の左手に、お城山尾根道(登城口)があります。今回はそこから登城。クモの巣だらけでした。
説明板の内容 -- 景石城跡 この城が何年(いつ)頃築かれたは明らかではないが太平記に延文の頃(一三六〇年頃)既にあったと記されている。その後、山名の城となったが天正八年(一五八〇)豊臣秀吉が鳥取城攻畧の重要な拠点として磯部兵部大輔にこの城を攻めさせ、山名勢を追い払い、磯部を城主として鳥取城への備えとした。ところが磯部が若櫻鬼ヶ城に所用のため不在の折、鳥取山名に攻め落されたが、翌天正九年、秀吉再度の鳥取城攻畧により、鳥取城は落城この際磯部は許されて再度景石城主となった。関ヶ原の戦いに西軍に味方したため咎を受け、この城を去らなければならなかった。替って智頭八東二郡の領主となった山崎左馬介の持ち城となったところが元和元年(一六一五)一國一城の端城御禁制の令が出され、この城は廃城となった。今に昔を物語るものとして、下城・馬洗場などの地名が残っており又、本丸・二の丸・物見櫓などの広場と石垣又矢竹の群生が見られる。 平成十二年四月 用瀬町教育委員会
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