雁木の上に建っているのは良寛の歌碑です。
塩屋門から大石神社に向かう道沿いには藩士たちの屋敷が立ち並んでいたようで案内板が道の両脇にならんでいました。
二階櫓が建っていたようです。 赤穂の特徴は複雑な縄張りによる過剰なまでの横矢掛かりです。
塩屋門から大石神社に向かう道沿いには藩士たちの屋敷が立ち並んでいたようで案内板が道の両脇にならんでいました。
番所内にて
三之丸外堀は清水門から塩屋門まで北側の城下町と城域を隔てていた水堀でしたが廃城後埋め立てられてしまいました。その後、写真の北西隅まで掘り直されていきましたが、ここから塩屋門までの西側の堀は道路のままです。
二之丸を南北に分けている西仕切が復元されておりその西端の土塀だけがぽつんと二之丸石垣の上に建っています。この西仕切ですがパンフの縄張図と博物館の復元模型では位置がずれていて、パンフの縄張図の位置で復元されているようです。
現在は水堀状態ですが本来は二之丸の南側は海でした。 横矢を意識してがくねくね曲がっています。
昭和58年に復元された門で公園内は本丸同様に部屋の間取りなどが表現されています。
近藤源八宅跡長屋門は無料で見学できます。
現在は水堀状態ですが本来は二之丸の南側は海でした。 右端の櫓台は南沖櫓です。
近藤源八宅跡長屋門にて
二之丸門付近から清水門方向を撮影。 写真右の石が三つ顔を出し水中にうっすら見える台状の箇所は横矢枡形があった形跡です。 この堀もかつては清水門まで石垣と土塀に囲まれていましたが、明治25年(1892)の千種川の洪水の復旧のための用材として供出することになり取り除かれたそうです。
赤穂城の南端になります。海に突き出る形で二重櫓が建っていました。
室内も見学可能です。
交差点にある案内板
大石神社の駐車場の交差点角に建っています。
三之丸側から。 三之丸は大半が立入禁止になっているので遠くから撮影です。 ここからは見えませんが手前に二之丸外堀(中濠)があります。
北西隅も櫓台ではなく横矢枡形です。
二之丸門の枡形の一部の復元になります。 明治25年(1892)の千種川の洪水の復旧のための用材として供出することになり取り除かれたそうです。
二之丸門の跡ににあるこの二つの石は小石で叩くと”かんかん”と音がなるので「かんかん石」と呼ばれているそうです。
写真中央の突堤が平成10年に復興されたもので奥が船着場になります。 水手門は海に面した門でこの突堤は波除の役割を果たしていました。
三之丸西側石垣越しに本丸方面です。 このあたりは当時は海上です。
写真中央が平成10年に復興された突堤で奥に船着場があります。 水手門は海に面した門でこの突堤は波除の役割を果たしていました。 現在は対岸から橋が架かっていますがもちろん元は海なので橋は存在しませんでした。
西駐車場脇にある石垣です。
波よけの突堤の上から。 水手門は海に面していて雁木の船着場から城内に入っていたようです。
二之丸と三之丸の西側の通路になります。 現在工事中のようです。
古い石垣の上に積み直しの石積そして土塁となっています。復元模型でもここの直線だけはこのようになっています。
廣瀬次郎清朗さんの三の丸石垣の写真とほぼ同じところです。 廣瀬さんの1月の写真では草もなくハッキリ石垣が見えていますが、 私の写真は草ぼうぼうで石垣が見えません。やはりお城探索は冬がいいですね。
城外の海(干潟)に突き出すようにかつては二重櫓が建っていたそうです。 写真右端に見えているのは干潟門跡になります。
外観復元の休憩所&トイレになっています。
外観復元の休憩所&トイレになっています。けっこう大きな建物です。
自分も定番構図で1枚
外観復元の休憩所&トイレになっています。 休憩所ですが内部も作りこまれています。
城内側から
この遊水池で堀の水量を調整していたそうです。
二之丸を南北に隔てている仕切土塀です。 写真左の丁字部分の土塀が外側から見えていた石垣の上にぽつんとあった土塀です。
二之丸を南北に隔てている仕切土塀です。 丁字部分の土塀が外側から見えていた石垣の上にぽつんとあった土塀です。
二之丸を南北に隔てている西仕切にある門です。
当日は無料公開日でした。
控柱付き棟門で門扉の一部に横板を張らない構造で「透シ門」と呼ばれていました。
本丸御殿の間取りを復元してあります。 奥に天守台が見えます。
赤穂城は海城であるため井戸が掘れず、上流から水道で水をひいていました。
平成9年に石垣や合坂などを復元したそうです。
刎橋門は二之丸へ開閉式の刎橋が架かっていたそうです。
一度も天守は建てられることはなかったようですが大きな天守台です。 もし天守が作られていたなら付櫓から入るようになっていたようです。 石段の一段一段が結構高さがありました。
天守台の最上部へ上がる石段はなく、この写真の所に付櫓を建て、付櫓内の階段から天守に入る計画だったと思います。
この櫓より南はかつては海でした。
本丸の石垣も複雑な折れで横矢を仕掛けられるようになっています。
こちらの櫓台のような出隅は横矢枡形になります。
藩邸の裏手にある門で開閉式の刎橋が架かっていました。
藩邸の裏手にある門で開閉式の刎橋が架かっていました。 橋の部分の堀の幅は1mくらいでした。
赤穂城は横矢を意識した縄張で折れが沢山あります。
城内側から ここは土塁が緩やかだったので近づいてみました。
写真の右側はかつては海や砂浜でした。
赤穂城の南東端のかつて海に面していた櫓跡です。
緩い角度で折れが複数あり横矢をかけやすくなっています。
二之丸外堀(中堀)と三之丸外堀(外堀)の合流地点になります。
二之丸の東側、舟入の南にある櫓台で平櫓だったようです。 写真奥が舟入になります。
城の東側にある舟入です。
解説文が消えかけていますが、パンフなど見ながらなんとか解読してみました。
本丸東北隅櫓は本丸に唯一あった櫓だったそうです。
大石神社駐車場の前のあたりです。古絵図だと厩があったようです。 自分の伯母がここに住んでいました。家の裏の駐車場から見えていた石垣は二之丸北隅櫓だったんですね。
写真左が清水門跡、堀を挟んで右側が二之丸東北隅櫓台です。
清水門跡付近にあります。
三之丸側から。 三之丸は大半が立入禁止になっているので遠くから撮影です。 ここからは見えませんが手前に二之丸外堀(中濠)があります。
干潟門は当時は海に面していた門で写真様な橋はなく石垣に直接船を乗り付けていたようです。かつては高麗門がありそのうしろには蔀土塁があったとされています。
二之丸外堀(中堀)と海との境界の場所になります。 葦で見えにくいですが左に見える石垣は三之丸の石垣、右側の石垣は二之丸の石垣になります。 二之丸石垣側の奥の開口部分は西中門になります。
三之丸と二之丸との間を土橋でつなげていました。
駐車場は歴史博物館横、塩屋門付近の西駐車場、さらに塩屋門を進んで大石神社の駐車場に停めることも可能なようです。赤穂市立歴史博物館の駐車場が出入りが楽で便利だと思います。
大手門に架かる橋で昭和10年復元。義士祭のパレードのスタート地点として露出が多く赤穂城の顔です。昔は車も通れました。
子供の頃はこの桝形の石垣は明治の改変で北側の櫓門跡は塞がれ、南側は取り払われて道は左折していました。2003年に復元したそうです。
番所内にて
子供の頃は明治の改変で大手櫓門跡は塞がれ、南側の石垣は取り払われて道がつけられていました。2003年に復元したそうです。 門を抜けた後はぐるっと枡形を回り込むという複雑なルートになっています。
高麗門は昭和30年復元です。
赤穂城は海岸につくられた海城ですので井戸により真水が得られず上流より上水を引き込んでいました。
昭和30年に古写真をもとに復元。 壕の向こうに見える櫓風建物は巴屋という和菓子屋です。
三之丸外堀は清水門から塩屋門まで北側の城下町と城域を隔てていた水堀でしたが廃城後埋め立てられてしまいました。その後、写真の北西隅まで掘り直されていきましたが、ここから塩屋門までの西側の堀は道路のままです。 三之丸北西枡形は櫓台に見えますが櫓は建ってはいなかったようです。
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