下から見上げたところ。杭に掘られた字が間違っています(「堅堀」になっている)。
清水谷には数多くの竪堀が落ちています。
いくつかの竪堀の最上部には、このような土留めの石垣が見られます。
中央を縦に走っているのが竪土塁、その右側に沿っているのが竪堀です。
崩れていますが、石垣がはっきりと確認できます。織田勢による小谷城攻めでは、秀吉が清水谷から水の手を登って京極丸を落とし、浅井長政のいた本丸と久政が入った小丸とを分断したことが落城の決め手になったともいわれます。つまりこの辺りを攻略したことになります。
番所は登城者がほぼ全員通ると思いますが、この石垣に気づく人は少ないでしょう。
有名な場所ですが、ボランティアガイドの方によると、猪が泥浴びをするので荒らされてしまうのが悩みだとか。
ここも登城道の下にあるので見過ごされがちな遺構でしょう。
礎石が点々と残っています。聞くところによると、猪は石の下にいるミミズを食べようとして礎石を掘り返すのだとか。結果的に礎石の位置がずれてしまうわけです。遺構保護のために地中に埋め戻してしまう場合がありますが、そういう話を聞くと国史跡のように保護の予算が確保できる場合以外は致し方ないのかもしれません。
本丸に登って満足する人が多く、ここも見に来る人は少ない遺構です。
大堀切の底から東側に少し降りたところにあります。この石垣も存在に気づく人は少ないでしょうね。
ここをまっすぐ下っていくと、屋敷跡を経由して小谷城千石歴史資料館の前まで迷わずに降りられます。
ちょっと浅くなっていますが…畝状竪堀の遺構はおそらく朝倉氏の築城技術によるものです。
竹生島がよく見えます。
小谷城域の最高所にある大嶽城は朝倉氏の援軍が入ったといわれます。土塁は低めですが、竪堀はかなり規模の大きいものが残っています。
山崎丸は朝倉氏の援軍として重臣の山崎吉家が入ったとされます。それが事実なら、織田軍の最前線に近い場所にいたことになり、朝倉軍は戦意に乏しかったという説には疑義が生じます。
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