忍び井戸
「大阪城の攻略が不首尾に終ったときは上野城に籠城する」という秘命を徳川家康からうけた藤堂高虎は、当時城郭建築の随一とうたわれた西島八兵衛尉之友を奉行として城郭の縄張りをはじめた。
八兵衛尉は三カ年間の籠城に耐えるためには最後の守備陣である天守に兵糧と水、塩とを無盡に確保することであると判断して小天守内に井戸を穿った。
丘の上に構築した城郭での悩みは水脈の断絶である。浅井戸では水が湧かないので五十間の深井戸を掘り、井戸側から横へ三カ所の隧道を穿って抜け穴とした。
抜け穴は城を中心に四方に通じ、その長さ一里におよび、兵糧の搬入、外部との連絡、援軍を城内に引き入れる路でもあった。落城した場合も、この通路を利用して忍びの者をはなち城内を攪乱して
奪取することも考えて設計された。
とくに秘密を保持するため抜け穴の出口と小天守に忍びの者を城中させ、井戸の
監視にあたらせ、藩士といえども井戸をのぞくことを許されなかった。
高虎らしい勾配のない斜めにまっすぐな石垣。せっかくの撮影ポイント、雑木や雑草を整理してほしい。
1935年に建設された復興天守です。
マスコットキャラクター。中の人がいないときは、天守1階に置かれています。
忍び井戸 「大阪城の攻略が不首尾に終ったときは上野城に籠城する」という秘命を徳川家康からうけた藤堂高虎は、当時城郭建築の随一とうたわれた西島八兵衛尉之友を奉行として城郭の縄張りをはじめた。 八兵衛尉は三カ年間の籠城に耐えるためには最後の守備陣である天守に兵糧と水、塩とを無盡に確保することであると判断して小天守内に井戸を穿った。 丘の上に構築した城郭での悩みは水脈の断絶である。浅井戸では水が湧かないので五十間の深井戸を掘り、井戸側から横へ三カ所の隧道を穿って抜け穴とした。 抜け穴は城を中心に四方に通じ、その長さ一里におよび、兵糧の搬入、外部との連絡、援軍を城内に引き入れる路でもあった。落城した場合も、この通路を利用して忍びの者をはなち城内を攪乱して 奪取することも考えて設計された。 とくに秘密を保持するため抜け穴の出口と小天守に忍びの者を城中させ、井戸の 監視にあたらせ、藩士といえども井戸をのぞくことを許されなかった。
小天守内にありました。なかなか興味深いです。
見事な打込接ですね。
足がすくんでこれ以上覗けず。
見事な折れですね。
台所門西側にあります。
せっかくの見事な石垣だけに、藪の多さがもどかしい。
雑木が生い茂り、撮影ポイントが難しいのですが、圧巻の高石垣です。
現在は伊賀流忍者伝承館となっています。
永倉(米倉)の一部を移築して現在は伊賀流忍者伝承館となっています。
昭和17年に建てられた国指定重要文化財です。
攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)
おそらく、八王子城の解説本の中で最も重要な一冊でしょう。
八王子城跡が現在のように整備されたのは、落城400年にあたる1990年以降のことです。本書の出版も同時期で、出版後に発見された遺構もあれば、今は目にすることのできない遺構も多数あります。言い換えると、1990年当時の八王子城跡の姿を記録した書であるとも言えます。八王子城に興味を持ってくださった方にはお薦めの一冊です。すでに廃刊となっていますので、古書店か図書館で探してください。
トンネル工事や台風・地震などにより、現在は失われてしまった石垣などの貴重な写真も多数掲載されていますが、白黒で小さいため分かり辛いのが残念。
攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック
いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する