ここは間違いなく往時の登城口。II郭への虎口へは折れのかかった坂と、最後に南進した際には左手(東側)の土塁が、これ幸いとばかりにこちらを狙ってます。
間違いなく、この桝形状の石垣の上に櫓があったはず……(私見です)!多聞櫓のような建造物?……時代は多聞櫓創成前だしなぁ……。天守構造の建造物?南西隅の櫓台は井楼櫓のようなもので、この遺構の上の櫓とは別物だったか?
この土塁、幅といい高さといい、ホントに一豪族の居館跡なのか?
ビュンビュン車が走ってました。 主郭南東隅の土塁が削られてました。この下の曲輪(帯曲輪?)も一緒にイカれてると思うのですが、モータリゼーションの波には勝てませんね。ひょっとすると、名阪国道のあたりは堀切や切岸の遺構を利用していたのかもしれませんね。
櫓台跡と案内板があるわけではありませんが、一段高くなっている土塁やそこへ向かう土塁上の石段の遺構から、推察されます。伊賀上野方面を一望できるのはこの場所だけですから。
ホントに一豪族の居館跡?縄張りの広大さからしても、小大名の居城という方がふさわしい。近世初頭まで増改変が行われていたのでしょうね……
ここは間違いなく往時の登城口。II郭への虎口へは折れのかかった坂と、最後に南進した際には左手(東側)の土塁が、これ幸いとばかりにこちらを狙ってます。
往時は四方を土塁で囲まれていたのだと思います。ここの土塁も幅広の土塁で、しかも土塁の周りには幅広の堀が巡らされていたようです。居館跡の西側には、堀の名残が確認できます。
萬寿寺には福地氏末裔・芭蕉の供養塔があります。画像中央やや右手の大屋根が萬寿寺。
上辺が比較的狭い場所で撮影。名阪国道による改変箇所以外はかなりの幅の土塁です。多聞櫓、作っちゃう?
主郭虎口から主郭西側の堀を撮影。堀の向こうには、さほど広くはないIII郭が広がっています。III郭虎口には土塁の遺構もあるので、二の丸もしくは三の丸の役目を果たしていたと思われます、さほど広くはないですが……。
このIII郭とIV郭の間に小道があります。往時からあったと思われますが、なかなかのこうばいでした。
主郭に次いで、ここが往時の面影をよく残している場所だと思います。広くはない曲輪ですが、三方を土塁で囲まれており、III郭・IV郭の間の登城口を守るための武者溜まりだったのかもしれませんね。
IV郭東側の堀。この堀を北上すると主郭を北から東へと囲む帯曲輪状の曲輪に出られる…はずで…すが……。……藪が酷くて入れませんでした。帯曲輪には井戸跡があるらしいのですが…残念!
ひょっとすると、現在の駐車スペースのある登城口は後世のもので、西から登城して城址碑の前で北に折れ、北上後この辺りから東進・登城するのが本来のルートだったのかもしれませんね。で、あるならば、III郭・IV郭は三の丸、II郭は二の丸、V郭は捨て曲輪と考えられませんか?
この登城口が一番攻めにくい!ようやく攻め上がっても、正面の高台の曲輪(現・伊賀の小屋組の家)や、左手のIII郭や主郭からの新手にもみくちゃにされそう……。
……わかりますか?σ^_^;
ここから登城するのが一般的なのかな?右手には駐車スペースとトイレもあります。
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