鎖で囲われています。しかもピカピカ。こういってはなんだが、そうまでして守るほどの石碑でもないだろうに。何かいたずらでもされたのだろうか。
案内板の縄張り図によれば堀の一部だったらしい。
大口公園の名前は、現地案内板に「明治44年(1911)、初代豊橋市長大口喜六氏がこの地を買収し、果樹園とした。(中略)昭和36年(1961)に市が買収して大口公園として開設し、昭和52年(1977)に再整備し、春は梅、秋は七草などを楽しむことのできる公園とした。」と説明があり、二連木の城名・仁連木の地名とは関係ないとわかります。 豊橋市に限らずどの自治体でも、こうした住宅地に、城址を公園という名目で存続させるには、遊具の一つも置かないと公園として認められないのかな。ここの場合、東屋と鉄棒がありました。大口公園は遺構がよく残る部分とこの児童公園部分の差がありすぎて妙でした。堀を埋めたらそりゃそこに何をつくるのってことかもしれません。何を造っても模擬だと眉をひそめる人もいるでしょうから。でもでももっと一体感を持った歴史を感じさせる公園にしてもらいたいものです。
ここも大口公園内という扱いなのかな。北側の児童公園部分に比べ、植栽などで本郭と一体感があります。(知らず知らずのうちに敷地に入る)
いいですね。
このアングルでは城址というより、案内板にあったように初代市長が買い取って果樹園にしていたという雰囲気の方が出ているかな。
鎖で囲われています。しかもピカピカ。こういってはなんだが、そうまでして守るほどの石碑でもないだろうに。何かいたずらでもされたのだろうか。
しかし、心地よい木漏れ日も写真にとっては敵ですね。
果樹園にしてしまった大口氏。「してしまった」とは少々失言で申し訳ありません。買い取った土地をどうお使いになろうと口を挟めないですが、この土塁を残してくださったのは、偉業です。
階段の向こうに見える案内板は、もすもすさんたちの写真とかぶるのでアップするのは控えますね。 土曜の午前中、この青空の中城址内散策していて、誰とも会わなかった。街の公園なんだから、ご近所の人が散歩したりジョギングしたりしててもおかしくないのに。ひっそり静まり返る園内を独占攻城した。
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