長さ8m、深さ約1.6mの箱型の堀です。
写真奥で竪堀になりますが、2つの堀の接続点は敵を阻む為に畝堀状に掘り残しているそうです。
当時は搦手側だそうです。 右奥に見える階段の途中にパンフレットがありました。
左側が第4曲輪、右側が第3曲輪。 第3曲輪の方が8m程高い位置にあります。
イラスト入りで詳しく防衛設備の変遷が説明されています。
左側が第2曲輪、右側が第3曲輪です。 3本の柱跡が示されています。 以前は、左と真ん中の柱跡の場所に跳ね橋が掛けられていました。 後世に、堀を埋め幅も狭め左と右の柱跡の位置に門が建てられ虎口となりました。 第2曲輪は6m程あり厳重な守りになっています。
一番広い曲輪です。 兵舎や食料庫があったと考えられます。 左側には土塁が築かれており、案内板の後ろあたりから地面が斜めに高くなっています。
建物跡や第1曲輪への入口が見つからない事から、第1曲輪への通路兼海側を監視する櫓があったと推定されています。
長さ8m、深さ約1.6mの箱型の堀です。 写真奥で竪堀になりますが、2つの堀の接続点は敵を阻む為に畝堀状に掘り残しているそうです。
左が第1曲輪(城の最高地点)、階段の下には海に向けて段曲輪が伸びています。
肉眼では富士山の右下辺りに赤と白の鉄塔が見え、そのあたりが武田氏の三枚橋城です。 韮山城を武田氏から守る為に、長浜城は築城されました。
第1曲輪に付属する海へと伸びる腰曲輪です。 一番下段に見えるC曲輪の更に一段下にD曲輪があります。
上のA曲輪との高低差は約3.5m以上もあります。
この写真からも城山全体が岩盤で形成されているのが分かります。
海側からの撮影。 曲輪からは、柱穴跡が見つかっているそうです。 案内板が立つところがB曲輪です。
城域西側のガイダンス広場には安宅船(あたけぶね)の大きさを示したモニュメントがあります。長さ約25m。北条水軍は少なくとも10艘持っていたそうです。 道路越しの工場のあるエリアは田久留輪といい、水軍武将の居館がありました。
敵が右側の第2曲輪の南斜面から、左側の第1曲輪に侵入するのを防ぐために岩盤を深く掘っています。
出陣式において 「一に打ち鮑、二に勝栗、三に昆布」の順に食べます。 「敵に打ち、勝ち、よろこぶ!」という事だそうです。
長浜城で一番小さい曲輪です。 防衛の為の曲輪と考えられています。 土塁(案内板後方から右側)は土を盛るだけでなく岩盤を削り残す事で土塁としています。 土塁幅5.5m、高さ約1.5mです。
写真上方が第2曲輪、手前が第1曲輪。 堀と写真右側の竪堀の間が、畝堀状に掘り残されて侵入を困難にしていました。
第2曲輪から撮影。 手前の第2曲輪からだけでなく、向かいの第3曲輪からも迎撃できる強固な守りです。
水軍クルーズ@北条水軍祭り(先着100名無料です)船上からの撮影。
第4曲輪下、南側の長浜側の道路沿い。 見逃しそうな場所にあります。
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