お知らせ 詳細
桜の季節の唐門から、市の宣伝隊長「朝倉ゆめまる」が顔を覗かしているデザインです。 ゆめまるは、一乗谷に住む妖精だそうです。
1068年に帝都東北鬼門鎮護の為建立。 その後朝倉氏の戦勝祈願所とされるが信長による大兵火で消失。 越前松平氏の時代に再興されました。 駅から下城戸に行く途中にあります。
一乗谷駅から徒歩10分程です。 予習不足で単なる城下町跡と思っていたら、いきなり立派過ぎる土塁と石垣が組まれた鉤型の虎口の出現に驚きました。 深さ3m、幅10mの堀はそのまま奥の一乗川に繋がっていたそうです。 土塁は高さ4.5m、幅15mもあります。
中には40トンを越える巨石を積んでいるそうです。
一乗谷川が足羽川と合流する地点のこの瀬は、ここを渡って向こう岸に辿り着ければ現世の罪や災いから逃れられる(罪人も無罪放免)という伝承があるそうです。 「一乗谷城下町図屏風」にも描かれています。
観桜宴(歌会)における足利義昭と朝倉義景の歌碑です。 「糸桜」とは、垂れ桜の事です。 武将は垂れる・しだれるという言葉は自分の位が下がる・家が没落するという意味に繋がるので忌み嫌い、垂れ桜を糸桜と呼んだそうです。
足利義昭をここに呼んで、庭前の糸桜の下で歌会が開かれたそうです。 庭石が当時のまま残っています。
高く立派な土塁でまさに郭の1つです。ガイドさんに聞くと有事は兵の駐屯地としても想定されていたそうです。 「一乗谷城下町図屏風」によると、階段を登りきった正面には門があり、左右両側には木製の塀が備えられていました。
中央やや左には日本最古の花壇跡が見えます。 足利義昭の御成時の主な宴会場となった広間からは見える越前特産の笏谷(しゃくだに)石で造られた花壇に咲き誇る草花を鑑賞しながら酒宴を楽しんだと云われています。
京都の「洛中洛外図」から中世の庭園では、「池庭」は「白砂敷の平庭」より格式が上であったと推定されるそうです。 一乗谷でも庭園の格式の差が見られ、朝倉氏当主の館・寺のみ池庭を配することが出来、朝倉氏NO.2の朝倉景鏡の館さえ平庭です。「一乗谷城下町図屏風」でも「朝倉式部大輔館(景鏡)」には、平庭が描かれています。
西側には石垣も見られます。 長さ105m、高さは5mで土塁の上に登れます。 「一乗谷城下町図屏風」によると、城戸の南東に【上城戸櫓】があったそうです。
写真手前が朝倉氏の「三ツ木瓜」、奥が秀吉の「五三の桐」です。 唐門は秀吉が朝倉義景を弔うために寄進し、現在の門は何らかの理由で江戸時代中頃に建て替えられたからだそうです。
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おそらく、八王子城の解説本の中で最も重要な一冊でしょう。
八王子城跡が現在のように整備されたのは、落城400年にあたる1990年以降のことです。本書の出版も同時期で、出版後に発見された遺構もあれば、今は目にすることのできない遺構も多数あります。言い換えると、1990年当時の八王子城跡の姿を記録した書であるとも言えます。八王子城に興味を持ってくださった方にはお薦めの一冊です。すでに廃刊となっていますので、古書店か図書館で探してください。
トンネル工事や台風・地震などにより、現在は失われてしまった石垣などの貴重な写真も多数掲載されていますが、白黒で小さいため分かり辛いのが残念。
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