駐車場側から登ってくると本丸跡に行く遊歩道になっている堀切があるのですが、そこを右側に行くと見えてきます。
趣意書 安田毛利氏は源頼朝に仕えた大江広元が祖といわれ広元の四男季光が相模愛甲郡毛利庄(神奈川県厚木市)を名字地としたことから毛利氏を称したと伝えられている 季光の子経光はゆえあって佐橋庄南条に住みその孫時元が初代北条城主毛利丹後守である 北条二代城主憲広の次男憲朝は今から六0五年前(応安七年)の安田城主となり毛利安田氏を称した 以来二二四年間にわたり上杉氏の忠臣として活躍したが八代能元は主君上杉景勝に従って会津に移ったことによりこの安田城は廃城となったのである 然し能元が慶長六年主君と共に更に米沢に転封されたときでも録高は四三三三石で上杉家筆頭でありその地位は幕末まで保ちつづけたことが明らかになっている 公園とよばれ安田地区の人々に親しまれてきたこの城址が近年荒れゆくのを惜しみ地元城之組部落の計画的整備を引金として昭和五三年大字安田協議会が毛利氏のその後の調査のために米沢に派した代表により毛利安田氏の血脈がいまも続いているばかりでなくその菩提寺である慶福寺と共にこの安田城から能元に従って米沢に移り住んだ家臣の子孫の人達とも三八一年目に再会できたとの報告を得「ふるさと安田」の歴史の重みを後世に永く伝えるため誇りをもってここに安田城址顕彰碑を建立するものである この碑の建設資金はわれわれのよびかけに応えた安田地区民の寄付金二一六万円によってまかなわれ碑銘は上杉家一六代当主上杉隆憲氏の揮毫によるものであり碑文は史料調査委員会が各界の指導をうけながらまとめたものである 昭和五四年一一月二三日 安田城址記念碑建立委員会 藤巻純雄 謹書 ※原文のまま載せてあります。
写真中央やや左下の残雪の所と、写真中央やや右上に茶色い立て看板があるところに空堀があります
ここまでハッキリ見れるのはこの時期ならです
写真では3段しか写ってませんが、写真左上の曲輪の更に一段上は現在は墓地になっています。そこの墓地に曲輪跡の立て看板があります
堀切の並びにあります。 城之組交差点側の登城口からだと見えないかも。
初めて目にしたのですが、結構な長さがあります
写真中央に見える建物がトイレですが、冬季間(12/1~3/31)は水道管凍結防止のため使えません。 本丸跡より広いです
二の丸跡同様細長い曲輪です
駐車場側から登ってくると本丸跡に行く遊歩道になっている堀切があるのですが、そこを右側に行くと見えてきます。
右側に行くと二重空堀があり、左側に行くと本丸跡に行けます。正面に下っていく竪堀っぽい道があるのですがそこを下ると墓地の前にある堀切に辿り付きます。
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