本丸はそこそこ広い。周囲には、そこそこの高さの土塁がありますが、根元がかなり崩れています。
この奥を降りたところに、西側の空堀を進める通路が、竹やぶを切り開いてあったので、進んでみましたが、式部殿城手前辺りで、コンクリート製の川に阻まれて進めませんでした。
城跡の登城口/駐車場の西側には、知覧城跡の標柱がありました。また、東側の県道との交差点には石碑がありましたが、良く見ると、国指定史跡の標柱が横たわっていました。
説明版の記載 -- 御仮屋跡(おかりやあと) この地一帯は、江戸時代中期に知覧郷の行政庁であった御仮屋が置かれた場所です。御仮屋は、立派な門構えで、屋敷の周囲には石の塀をなし、家の造りは茅葺の長屋であったと伝えられています。 現在に残る知覧麓の町並みは、この御仮屋の地を中心に地割が行なわれたと伝えられます。主要な街路は、周辺の山々の山頂などを目標とする山当てにより構成されていることから、山々を眺望でき、石垣と生垣とあわせて美しい景観を形成しています。明治時代の知覧学館(知覧小学校の前身)を経て裁判所・検索庁・役場などが置かれ現在に至っています。 --
近くにある説明板の記載 -- 山下井堰(やましたいぜき)(花井手(はないで)) 井堰とは農業用水や生活用水・産業用水として川や池の水を止め、用水路へ水を送るための井手のことです。 山下井堰は安永9年(1780)佐多氏19代島津久邦(ひさくに)の築造で、下流の中郡・下郡の田に水を供給します。井堰の左岸には安永9年建立の水神碑があります。 石の井堰になる前は、蓬莱竹(ほうらいちく)(キンチク)などで編んだ「絡(から)み」による柴井手(しばいで)だったと考えられます。「鹿児島縣維新前土木史(かごしまけんいしんぜんどぼくし)」には江戸以前の知覧の主な井堰として、山下井堰・川床(かわとこ)井堰・河湾田(かわんだ)井堰の3カ所記載されていますが、その中で残されているのは山下井堰のみとなりました。 豊玉姫神社の六月灯では、井堰から延びる用水路に水車を掛けて、「水車からくり」が上演されます。 --
知覧市街地マップには以下の説明あり。 -- 領主別邸跡と庭園 大心寺には、江戸時代知覧領主の別邸があったといわれ、現在も庭園が残されています。 --
角の右手に石碑がある。なお、市街地マップには以下の説明あり。 -- 領主館跡 知覧領主が江戸時代前半に居住した館跡です。館の周辺には玉石積みの石垣が残るなど当時の面影がしのばれます。 --
攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)
おそらく、八王子城の解説本の中で最も重要な一冊でしょう。
八王子城跡が現在のように整備されたのは、落城400年にあたる1990年以降のことです。本書の出版も同時期で、出版後に発見された遺構もあれば、今は目にすることのできない遺構も多数あります。言い換えると、1990年当時の八王子城跡の姿を記録した書であるとも言えます。八王子城に興味を持ってくださった方にはお薦めの一冊です。すでに廃刊となっていますので、古書店か図書館で探してください。
トンネル工事や台風・地震などにより、現在は失われてしまった石垣などの貴重な写真も多数掲載されていますが、白黒で小さいため分かり辛いのが残念。
攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック
いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する