二郭社務所前に設置。沿革と縄張り図の記されたリーフレットもここにあります。大変親切な城址で、好感度バツグンです!
画像右手に社務所、その前の案内板(リーフレットはここにあります)、画像左手には駐車スペースがあります。 この日は大宮ナンバーと八王子ナンバーの車が停まってました。
社殿北側には四脚門跡の案内板がありました。ここから二郭と三郭間の馬出しへ向けて、引き橋がかかっていたそうです。だとすると、主郭側には引いた橋を収納できるスペースがあったということ…。堀の中に橋脚の跡がなかったので引き橋と考えたのでしょうが、安易過ぎないでしょうか?社殿の辺りには櫓が建っていたそうですよ。ここは単なる架け橋ではなかったのではと考えます。
堀の深さがよくわかるアングルだと思います。
霧吹きの井戸から血の出る松へとカーブを上がるとここに出ます。ここから二郭まで車で上がれます。
三郭の北西にある大手口と推定される箇所に、櫓台の跡があります。私有地内なので、道路から石碑を撮影しました。
画像右手の切岸の上には物見台があったそうです。左手には東曲輪への通路がありました。
堀が複雑に入り交わって、侵入者の行く手を阻みます。
独立した三郭は主郭を一回り小さくした程の広さで、北端に大井戸の跡があります。
二郭社務所前に設置。沿革と縄張り図の記されたリーフレットもここにあります。大変親切な城址で、好感度バツグンです!
石碑は先に攻城された方が撮影済みでしたので、割愛しました。
この鳥居へは下の道路から石段がありましたが、当時はなかった入り口でしょう。かなりの急勾配でした。
柳瀬川を挟んで向こう側は東京都。要衝の地であったことがよくわかります。 眼下には武蔵野線が走っていました。
主郭下、南西の山腹にあります。 山城で苦労する水の手はしっかり確保できていた様で、三郭にも大井戸の跡が残されています。
二郭西側の中堀辺りから撮影。画像向かって中央やや右手が中堀です。左側の道路は後世の改変でカーブの辺りに『血の出る松跡』の碑があります。 この画像の辺りから、中堀と山麓への道路がつながって、堀切を形成していたと思われます。
このカーブ!明らかに枡形状の虎口を形成しています。画像中央が櫓台跡、左手に向かうと城外で、櫓台の向こう側は折れの入った外堀が、埋め立てられて砂利の空き地になってました。
三郭の北側には、空堀を挟んで土塁が築かれてました。北条氏特有の比高二重土塁ですね!
画像中央のこんもりした土塁の上には物見櫓が建っていた様です。イイね!
三郭と馬出しの連結部への土橋。
画像左手には単独の三郭が、右手には二郭へとつながる馬出しが広がります。
画像左手前に馬出しが、そのさらに奥には二郭が見えます。馬出しの向かい側(画像右手)は馬出しとほぼ同じ高さの比高二重土塁があります。外側から登ってきた敵を、正面の馬出しから狙い撃ち!
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