坂の上に説明板があり、その記載内容は以下の通り。 -- 石畳道(いしだたみみち) 一五九七年に整備(せいび)された首里(しゅり)と浦添城(うらそえじょう)を結(むす)ぶ石畳道です。首里(しゅり)の平良橋(たいらばし)が木製の橋であり、雨が降(ふ)ると道がぬかるみ、人々が往来(おうらい)するのにとても不便(ふべん)であったため、尚寧王(しょうねいおう)の命により整備(せいび)したことが、道の完成を記念して建てられた「浦添城の前の碑(ひ)」に記されています。 二〇〇六年からの発掘調査(はっくつちょうさ)では尚寧王が整備した当時の石畳を確認し、当時の石を生かしながら復元(ふくげん)整備しました。 浦添市教育委員会
写真正面にある説明板の内容は以下のとおり。 -- ワカリジー ワカリジーは浦添城跡の東端に屹立(きつりつ)する岩で、頂上の標高は約一四八メートルと市内で最も高い場所となっています。 一七一三年に成立した地誌『琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)』には浦添城内の御嶽(うたき)についての記述があり、その中の「小御嶽」はワカリジーにあたると考えられています。「為朝岩(ためともいわ)」とも呼ばれますが、これは近代になって付けられた呼称だと言われています。 ワカリジーは、英祖王と女神職のウシキンベーとの間に生まれたイソノシー(伊祖の子)を祀(まつ)った場所とされ、主に前田集落から信仰され、首里や那覇からも参拝者が訪れたといいます。 沖縄戦中は米軍から「ニードルロック(針のような岩)」と呼ばれ、日米両軍の間で争奪戦が繰り広げられました。 浦添市教育委員会 ※浦添市教育委員会では前田部落有地地主会からワカリジーの寄贈を受け、平成二十五年度に崩落対策工事を行いました。
正面の説明版の内容は以下の通り。 --- 浦添家(うらそえけ)の屋敷跡(やしきあと)? この一帯にみられる敷石(しきいし)は、第二尚氏(だいにしょうし)第三代国王(だいさんだいこくおう)・尚真王(しょうしんおう)の長男である尚維衝(しょういこう)を祖とする、浦添家の屋敷(やしき)の跡(あと)かもしれません。敷石は一九八三年の発掘調査(はっくつちょうさ)で確認(かくにん)され、明朝系瓦(みんちょうけいがわら)(中国(ちゅうごく)の技術(ぎじゅつ)で造(つく)られた瓦(かわら))がみつかっています。 尚維衝は、父・尚真王の不興(ふきょう)をかい、首里から浦添城に移されました。第七代国王の尚寧(しょうねい)王は浦添家の出身で、尚維衝のひ孫にあたります。 浦添市教育委員会 ※この説明板の作製には「ふるさと納税」が活用されています。
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