北畠氏時代の名残と思われる土塁。向かって右側が北の丸で、さらに北の帯曲輪のような曲輪の土塁だと思われる。
北畠氏時代の名残と思われる土塁。向かって右側が北の丸で、さらに北の帯曲輪のような曲輪の土塁だと思われる。
嘉永3年(1850)、紀州藩付家老久野氏によって北の丸跡に造営された鎮守の稲荷社。
階段横には、付櫓台もある。天守はライトアップ用の施設だと思われる。
空堀をはさんで左側は、中世の土塁、右側は、近世の石垣となっている。手前に少し見えているのが、それらを結ぶ土橋。
近年発掘整備された、城南側に抜ける搦手道。この少し上には、土塁の外枡形が残り、中世からの遺構らしい。
搦手から降りてすぐに現れる外堀
城主の久野氏が田丸城に来た時に、宿泊したりくつろいだりした三の丸にあった御殿奥書院。廃城令で払い下げられ、個人の住宅として100年以上使われたらしい。その後、玉城町の所有となり、現在地(村山龍平記念館裏)に移築された。予約をすれば、中も見学できる。
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おそらく、八王子城の解説本の中で最も重要な一冊でしょう。
八王子城跡が現在のように整備されたのは、落城400年にあたる1990年以降のことです。本書の出版も同時期で、出版後に発見された遺構もあれば、今は目にすることのできない遺構も多数あります。言い換えると、1990年当時の八王子城跡の姿を記録した書であるとも言えます。八王子城に興味を持ってくださった方にはお薦めの一冊です。すでに廃刊となっていますので、古書店か図書館で探してください。
トンネル工事や台風・地震などにより、現在は失われてしまった石垣などの貴重な写真も多数掲載されていますが、白黒で小さいため分かり辛いのが残念。
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