正保城絵図(しょうほしろえず)では、荒和布櫓(あらめやぐら)と呼ばれる見張りの櫓がありました。今ある建物は、嘉永(かえい)7年(1854)の大地震(だいじしん)以後に建てられた太鼓櫓(たいこやぐら)です。時刻を知らせる太鼓(たいこ)を置いていた櫓で、何回かの移転(いてん)の末、昭和30年(1955)に三(さん)の丸(まる)から移築(いちく)されました。
見上げる様に撮影しました。
掛川市内の眺望です。
天正(てんしょう)18年(1590)山内一豊(やまうちかずとよ)が入城(にゅうじょう)する以前は、本丸(ほんまる)として使われていました。一豊によって城域(じょういき)が拡張(かくちょう)されると、天守閣(てんしゅかく)を配置する独立した曲輪(くるわ)になりました。 永禄(えいろく)12年(1569)徳川家康(とくがわいえやす)は、今川氏真(いまがわうじざね)の立てこもる掛川城を攻めました。この時、井戸から立ち込めた霧(きり)が城つつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。 TENSYUMARU KIRIFUKIIDO
平成6年に木造で再建されました。
二の丸御殿に向かう途中、撮影しました。
二の丸御殿より撮影しました。
正保城絵図(しょうほしろえず)では、荒和布櫓(あらめやぐら)と呼ばれる見張りの櫓がありました。今ある建物は、嘉永(かえい)7年(1854)の大地震(だいじしん)以後に建てられた太鼓櫓(たいこやぐら)です。時刻を知らせる太鼓(たいこ)を置いていた櫓で、何回かの移転(いてん)の末、昭和30年(1955)に三(さん)の丸(まる)から移築(いちく)されました。
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