お知らせ 詳細
案内板の後ろの坂を登って行くと、東曲輪後に抜けられます。
案内板の後ろの坂を登って行くと、東曲輪後に抜けられます。
本丸天守南側から遊園地(屏風岩曲輪)の前を経て報徳二宮神社(小峯曲輪)へ向かう途中にあります(そもそも、本丸の虎口は東の常盤木門と北の鉄門の2箇所だけで、天守南側に虎口はなかったんですけどね…)。 発掘調査で、障子堀だったことがわかっているそうです。
石垣も、門や堀や土塀と一緒に撮影すると、奥行きが分かって良いですね。 …普段は土塁ばかりなので苦労してますσ^_^;
建造物が重なり合ってるのってステキ! 普段は建造物のない土塁と空堀だけの廃城ばかりなので、テンション上がります!
馬出門から馬屋曲輪〜銅門をくぐって二の丸〜本丸と進むルートが、お殿様の登城ルートとのこと。歴代城主も、この門から天守を仰ぎ見たことでしょうね。
住吉橋と銅門と天守を一緒におさめたかったのですが、右へ行くと橋が写らず、左へ行くと天守が銅門に隠れる。ムズイ…
銅門の二の丸側土塀下の石垣って、後から積み直したのかな?
住吉橋を渡って枡形内に入ると、左手の銅門へ向かって緩やかな坂を登ります。 この日、銅門内部を公開していました。
ボランティアの方々が、構造や由縁について丁寧に説明なさっていました。
ここの枡形は常盤木門と続多聞櫓で構成されています。かなり厳重な防備ですね。
付櫓は本丸内部側に突き出しているんですね。アンシンメトリーは表情が豊かで良いですね。
山中城〜石垣山城〜小田原城とぐるっと回り、楽しさのあまり朝食も昼食もとってないことに気づきました。本丸売店で購入した『胡麻どら』『早雲城』と『キリンフリー』で軽くお腹を満たしました。
忍城以来、こればっかりですわ…σ(^_^;)
文久図によると、この撮影場所は城外だったようです。天守付櫓から伸びる石段は、そのままぐるっと東へ回り、常盤木門まで土塀でつながっていたようです。現在の子供遊園地への通路は後世の改変によるもののようです。
小田原駅からは、この入り口の方が近くて便利です。
画像手前の報徳二宮神社の駐車場が運良く空いて、駐車してから攻城開始。正月2日、神社への参詣客で賑わっていました。
30年前に来た時は隅櫓だけでしたが、立派な門まで出来て嬉しいです。
この近辺から見た天守、なかなかいいね!
住吉橋と銅門と天守。下がったら上手くおさまりましたσ^_^;
枡形内部の広さが伝わりますでしょうか?
樹木が多くて、九輪橋・常盤木門が隠れてしまいました。
撮影板と天守を入れて撮影しようとしたら、ドヤドヤと団体が来て撮影を始め、そのまま居座ってしまいました( ̄^ ̄)むかっ! 順番とマナーを守りましょう。礼節を重んじるはずの日本人、質が落ちていると痛感しました…
白亜の天守。化粧直しで見違えるほど眩しくなりました!
こちら側から撮影したことはなかった…。付櫓のみえかたで、随分と印象の変わる天守だと思いました。
入母屋破風側はスマートな印象。いつものずんぐりむっくりとはかなり印象が変わります。
♪───O(≧∇≦)O────♪ おぉお!胡麻どらより、こっちの方が美味しっ!! 好物の両口屋の『旅枕』に近い食感! 餡もややねっとりしていて、甘過ぎない!…うーむ、美味すぎる!
胡麻の味がしっかりしたどら焼き。 美味し!!
お猿さんのいる檻の前から撮影しました。 お猿さん…?昔はライオンじゃなかったっけ?記憶違いか…!
発掘調査中?中には入れませんでしたが、御用米曲輪に天守の影が落ちていました。
東曲輪と主郭部分を隔てる堀切跡と思われる道です。
北条氏時代の内郭部だった八幡山。 上方勢の九鬼や加藤の水軍を、ここから眺めていたのでしょうね。
北条時代の小田原城の中核、八幡山古郭についての説明があります。
ここは静かで見晴らしも良く、穴場ポイントかもしれませんね!
東曲輪内にある案内板です。天守の裏側が見渡せます。訪れた時間帯には、誰もいませんでした。
発掘時の調査結果と、ここからの展望についての説明が記載されています。
東曲輪からの帰り、信号待ちの間に撮影しました。
江戸期の2度の大地震、関東大震災で殆どの石垣が崩落しているそうで、現在の石垣はその後に積み直したものだそうです。 唯一、本丸南側、小峯曲輪との境にある石垣は、大久保時代の石積みらしく、上部は崩れていますが、威容?威厳?は感じられます。
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