別名 下野西方城、鶴ヶ岡城、西堀山城
西方城は宇都宮氏の一族である西方景泰を祖とする西方氏の居城です。皆川氏の領域と接する境目の城でしたが、1515年(永正12年)に宇都宮忠綱が皆川宗成との戦いで敗れた際に、この城も落城しています。その後、1585年(天正13年)に宇都宮国綱が佐竹義重の支援を得て皆川広照から城を奪還しましたが、1597年(慶長2年)に宇都宮氏が改易された際に廃城になったと思われます。現在城址は西の丸部分がゴルフ場開発のために消滅しているものの、その他の曲輪については土塁や空堀、竪堀などの遺構が良好に保存されています。登城口は東麓の長徳寺にあります。
西方城を訪問した124人の報告によれば、平均見学時間は1時間24分、平均評価は4.00点となっています。
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長徳寺参拝者用駐車場
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攻城団の勉強会で話題となった江戸時代に書かれた日記関係の書籍を読んでみたくなり、図書館のホームページで検索した所、何度か読んだことのある山本博文先生が書かれた「江戸お留守居役の日記◆寛永期の萩藩邸◆」が抽出されたので読んでみることにしました。内容は萩藩の江戸留守居役である福間彦右衛門によって寛永期に書かれた日記が元になっています。この本を読むまでは、江戸屋敷に常駐している藩士は自由に江戸の町で行動出来ると思っていましたが、実際はかなり制限されており、不自由な生活を余儀なくされていた事を知りました。そのような過酷な環境の中で藩士が起こした不始末や幕府から出された命令を、留守居役の彦右衛門が町奉行、旗本と相談しながら解決していく様が描かれています。なお、屋敷外での勤務、藩邸周辺の警備にあたる辻番所は近代の交番のルーツだそうです。当時の江戸屋敷の武士、町民の生活が垣間見られた一冊です。
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