礎石が見られます。
石垣によって造成された約30m程の広場には、足軽の宿泊施設の外、「小頭部屋」(ことうへや)・「稽古場」等、数棟建ち並んでいた。 足軽が城に出仕(しゅっし)(勤務)する場合、最初にこの長屋に立ち寄ることになっていた。
本丸へ上る道をさえぎる形で建っていた綿蔵門は、夕方七ッ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸には進めなかった。 門の名の由来は、年貢として納められた真綿(まわた)が、門の二階に保管されていたことからきている。
苗木城内の井戸で一番高い場所に位置するこの井戸は、高所にもかかわらず、どんな日照りでも水が枯れることがなかったと伝えられており、千人の用を達するということから千石井戸と名付けられています。 千石井戸の西側にある本丸口門は、本丸と二の丸の境となる門で、総欅で建てられていたことから、欅門とも呼ばれていました。 千石井戸の東側には、掛け造りの小屋が並んでおり、渋紙蔵、山方蔵、郡方蔵などがありました。
柱を支えたであろう穴が残っています。
苗木城の石垣はとても見応えがあります。
朝8時頃に登城。霞ヶ城の別名通り、朝霞に覆われました。
苗木城の中で一番大きな大門は、二階建てで、三の丸と二の丸とを仕切っていた。 門の幅は二間半、二階部分は物置に利用されていた。 領主の江戸参勤出立時などの大きな行事以外は開けず、普段は、左側(東側)にある潜り戸を通行していた。
朝は深い霧でした。
「切石」できっちりと積まれた石垣の上に建てられていた御朱印蔵には、将軍家から代々与えられた領地目録や朱印状など重要な文書や刀剣類が納めらていた。 これらの収蔵品の虫干しは、毎年一度必ず行われ、また蔵への出入りには、右側の梯子(はしご)が使用された。
領主遠山家の住居や家臣が集まる部屋がありました。
この門は二脚となっており、門の礎石と手前の石段が良く残されている。 坂道の下にあったので、坂下門と呼ばれていたが、またの名を久世(くぜ)門ともいう。 これは三代領主友貞(ともさだ)の奥方の実家で、苗木城改修の際に力添えをした徳川家譜代の名家久世家の名からきていると伝えられている。
武器蔵は礎石が残っています。
本丸から撮影。武器蔵の礎石・縁石がよくわかります。
巨岩と巨石の城です。朝靄が少々残念。
本丸からみて西側にある矢倉で、常時何も置かれていなかった。 この絵図では建物が1層に描かれているが、実際は床下も合わせて3階建ての掛屋造(かけやづく)りで、巨岩の上に建てられていた。 ここからの眺望が良く、笠置山が正面に見えることから「笠置矢倉」 と呼ばれた。
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