朝6時頃。早朝に映える天守は美しかった。
鶴ヶ城の遺構 御三階(ごさんかい) 江戸時代の建築で、明治初年まで鶴ヶ城(つるがじょう)本丸にありましたが、明治3年にこの地に移されました。外観(がいかん)は3階ですが、内部は4層になっており、2階と3階の間に天井(てんじょう)の低い部屋があります。3階に上る梯子(はしご)は用のない者が上がれないように、上から引き上げる仕組みになっており、当時は密議所(みつぎしょ)に使用されていたと思われます。また、本丸北東の正方形の石垣の上に建っていたところから、物見や展望台の役目を果たしていました。 戊辰戦争(ぼしんせんそう)の戦火(せんか)で阿弥陀寺(阿弥陀寺)が消失(しょうしつ)したために、長く本堂として使用されてきました。玄関の唐破風(からはふ)は城内本丸御殿の玄関の一部を配したものです。鶴ヶ城の遺構(いこう)として唯一残る貴重な建物です。 【参考文献】 『会津大辞典』(会津大事典編纂会発行・国書刊行会刊) 『会津歴史年表』(会津史学会発行・歴史春秋社刊) 七日町町並み周辺整備事業 (財)東日本鉄道文化財団・七日町通りまちなみ協議会
巨大な城域であったことを感じます。
迫力あります。
天正六年(1578)に亡くなった戦国時代の武将上杉謙信は、甲冑姿で甕(かめ)に納められたと伝えられ、居城の越後春日山城(現在の上越市)に葬られました。その後、跡を継いだ上杉景勝が会津へ移封するのにともない、謙信の墓所も会津へ移されることとなり、若松城(鶴ヶ城)内の西南の隅の仮殿に安置されたと記録があります。当時の城内の様子は正確にはわかりませんが、「城内」が今の内堀に囲まれた中を指しているのならば、この蔵跡あたりが該当するのではないかと考えられます。 慶長六年(1601)、上杉景勝の米沢転封により、謙信の遺骸も米沢城の本丸に移されました。 The Mausoleum Holds the Remains of UESUGI KENSHIN UESUGI KENSHIN,one of the great generals of the Sengoku period of Japan,died in 1578.He was buried in his armor at Kasugayama castle. UESUGI KAGEKATSU moved his remains to Aizu,and the KENSHIN’s remains were enshrined in a temporary hall situated on the southwest corner of Wakamatsu castle. This hall might have been subsequently converted into a storehouse.
茶壺櫓跡付近から撮影。
阿弥陀寺に移築された貴重な現存遺構です。
容保桜と同じく、西の丸を入ったところの帯郭にあります。
帯郭石垣上から撮影。年末大型時代劇白虎隊でも、鐘を撞くシーンと鐘撞堂で時守が戦死しているシーンが登場します。会津戦争では大きな役割を果たした場所です。
茶壺櫓(ちゃつぼやぐら) この櫓の下には、茶室麟閣があり、櫓内には主に貴重な茶器類が納められていたためこの名がある。茶壺櫓は廊下橋の側面の守りとしても重要な櫓である。廊下橋両側の石垣は高さ約20メートルと城内で最も高く美しい石積みである。 【Chatsubo Yagura(Teapot Tower)】 These are the remains of a corner tower.Valuable tea ceremony equipment and tools were kept in the tower because Tea Cottage Rinkaku was located below here. The tower also contained weapons and other items for battle.Soldiers could attack the enemy flank from this position. The tall stone wall just beyond the tower is approximately 20 meters in height. It is the tallest stone wall on the castle grounds and is known as the ninja otoshi or “falling ninja wall”.
本丸と二の丸をつなぐ廊下橋より撮影。奥に茶壺櫓跡を望む。手前の高石垣は20メートルを越す。茶壺櫓跡は石垣と土塁で形成。廊下橋の横矢がかりの櫓であることがわかります。
二の丸から本丸をつなぐ橋。昔は屋根がついた廊下のような橋だったのでその名がついたとか。橋の両側には20メートルの高石垣です。
月見櫓(つきみやぐら) この櫓には常に武器が納められていた。また、櫓にかかる月が一際美しかったことからこのような名で呼ばれた。役割としては城下南方の物見櫓、また内濠から続く本丸南側の石垣の横矢掛としても重要な櫓だった。 【Tsukimi Yagura(Moon-Viewing Tower)】 There used to be a tower here.The view of the moon from this tower is reputed to have been exceedingly beautiful.As such,the tower was named the tsukimi yagura or“moon-viewing tower”.Weapons and other items for battle were stored here.The tower was also a key location for defense;one could look out over the area surrounding the castle and attack any enemy soldiers who tried to cross the moat.
会津藩家老 西郷頼母(さいごうたのも)邸跡 戊辰八月二十三日朝、西軍が鶴ヶ城下に侵入し急を告げる早鐘が打ち鳴らされると会津藩士・家族達は籠城戦に備え競って入城を急いだ。 西郷邸では、頼母の留守を預かる妻・千恵子が長男・吉十郎を城に送り出した後、一族を集め、幼い物や子女は足手まどいになり、恥辱を受ければ家名の恥になると説き聞かせ、母・律子(五十八才)をはじめ、季子(二才)までの二十一人そろって辞世の和歌を詠み自刃した。 なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ 千重子(三十四才) 死にかへり いくたび世には生まるとも ますら武夫と なりなんものを 眉寿子(二十六才) 武士(もののふ)の 道を聞きしをたよりにて 思い立ぬる よみの旅かな 由布子(二十三才) いざたどらまじ 死出の山道 (下句)細布子(十六才) 手をとりて 共に行きなば迷はじよ(上句)瀑布子(十三才) この日、郭内では、二三〇余名の婦女子が自刃するという大きな悲劇を生む戦いとなった。 会津若松市 会津若松ロータリークラブ 一族二十一人の墓は、鶴ヶ城南、門田町北青木善龍寺にあって毎年五月その霊を弔う「なよ竹祭り」がしめやかに行われている。
右手が本丸左手が伏兵郭
中央ポールの奥が天守です。白虎隊士はあの周辺を見たのでしょう。
干飯櫓付近より
全体を撮影。
鉄門付近より撮影。
本丸内にあります。
北出丸の入口に当たる。左右の石垣は階段になっていて、そこから狙撃。桝形になっており、侵入は困難だったろうと思います。
国指定史跡 昭和九年十二月二十八日指定 平成五年十月二十九日追加指定 史跡 若 松 城 跡 (天寧寺町土塁) 所在地 会津若松市花春町一二六番 外四筆 この土塁は、蒲生氏郷が会津に入部し、文禄元年(一五九二年)若松城の改築に着手した際に築造されたとされ、若松城の追手として最重要地点であった。 また、外郭と内郭を区画した若松城の土塁の遺構で、市内に現存するものは、わずかであり貴重なものである。 今回、「甲賀町口門跡」、「天寧寺町土塁」、「三の丸堀跡」の三カ所が国指定史跡若松城跡として追加指定をうけたものである。 平成七年三月 会津若松市教育委員会
ホテルから徒歩で朝登城の道すがら、偶然遭遇しました。見た瞬間これは土塁だ!とわかりました。
三の丸口から入城。二の丸より三の丸口方面を撮影
明治元年(1868)9月22日巳の刻(午前10時頃)、会津藩は「降伏」の旗を掲げ、壮絶な戦いを繰り広げた籠城戦に終止符が打たれました。山本(新島)八重は、新政府軍が鶴ヶ城に入城する様子を「切歯扼腕(せっしやくわん)」(歯ぎしりし腕を強く握るほど無念な様子)の思いで見守ったと晩年(84歳)に語っています。 降伏の儀式が終わり夜が更けると、八重は三ノ丸の一角で一首の和歌を詠みました。このとき「月が物凄いように輝いていた」とのちに回想しています。 ー八重が物心ついたときから日々見上げてきたお城、籠城戦では城を枕に殉死する覚悟までしたこの鶴ヶ城が、明日からどこの国の誰の手に渡ってしまうのか。ー 煌々と輝く月明かりの下で詠まれた和歌に、八重の無念さが込められています。
最高の天気でした。
朝登城にはまりそうです。
快晴に感謝。
20メートルを超える高石垣。扇の勾配で忍者落としとも呼ばれているようです。
本丸付近より。
帯郭より撮影
この桜は福島の復興の象徴としてみなさんの思いが未来へ大きく羽ばたいていくような思いも込めて「はるか」と命名した桜です。 復興への願い、復興に励まれる福島のみなさんの生活、夢や希望に満ち溢れた子どもたちの成長を、この鶴ヶ城から八重さんと一緒にいつまでも見守っていて下さい。 そして、子どもたちの成長とともに いつか立派な花を咲かせ、 入学式や入社式など新たな門出を 迎えたみなさんを祝福して下さい。 福島の復興、みなさんの思いが、 実を結びます様に、 心より祈念しております。 綾瀬はるか 平成二十五年十二月四日
容保桜(かたもりざくら) 会津藩主、松平容保公が京都守護職を拝命した際の会津藩上屋敷であった現在の京都府庁旧本館中庭において、桜守である佐野藤右衛門氏により発見された新種の桜です。 佐野氏により「容保桜」と命名され、容保公ゆかるの地である本市に寄贈されたものです。 平成二十七年四月十四日 会津若松市長 室井 照平
西の丸から入ったところの帯郭にあります。
鐘撞堂(かねつきどう) 時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂で、その鐘は延享4年(1747年)若松の鋳工早山掃部介安次(そうやまかもんのすけやすつぐ)等の作として知られ、鐘の撞き方は江戸流であった。戊辰の役(1868年)では、ここに新政府軍の砲火が集中し、時守が相ついで斃(たお)れたが、開城の間際まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した。 The Belfry The bell in the structure was struck to announce the time to the residents of the castle town.During the Boshin Civil War in the latter half of the 19th century,the structure was targeted by the enemy forces,but until the end of the war,the bell continued to announce the correct time.
どの角度からもいいですね。
北出丸から本丸に通じる大手門(追手門)のことで、ここには多聞櫓(たもんやぐら)と呼ばれる櫓が建てられ、直径五尺八寸(約1.8m)の大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用したことから太鼓門と呼ばれた。 【Taiko Mon Gate】 This was the main gate to the castle grounds from the kitademaru.A drum 1.8meters in diameter was placed on top of the gate and was beat in certain situations such as emergencies.
奥が太鼓門跡。写真の反対方向は北出丸です。
【北出丸】 寛永16年(1639年)加藤明成のとき、北馬出を出丸に造りかえたもので、本丸を守る重要な出丸であった。東は二の丸と伏兵郭(ふくへいくるわ)に、南は本丸に、西は西出丸に濠をへだて相対し、攻防の際には最も重要な位置にあったため城の生命線であった。北出丸に侵入した敵は三方からせん滅することができるので「鏖丸(みなごろしまる)」ともいわれていた。 【Kitademaru】 As the entrance to Tsuruja-jo Castle,this was an area of particular importance It was constructed during the first half of the 17th century with a number of innovative contrivances the castle against invasion by enemies.
石垣が水堀に映えていました。
紅葉時期にも見てみたいポイントです。
会津若松城は堀もなかなかです。
泣血氈(きゅうけつせん)の誓い 明治元年(一八六八)九月二十二日午前十時、 会津藩は鶴ヶ城の北出丸に「降参」と大きく書かれた白旗を掲げました。そして正午に、追手門に通じるここ甲賀町通りの路上で降伏式が行われました。 地面には、家老内藤介右衛門邸にあった四・五メートル四方の緋毛氈(赤色の上等な敷物)が敷かれ、その上に会津藩主の松平容保・喜徳父子が立ち、西軍の軍監である中村半次郎らに嘆願書を渡しました。一か月に及び必死に戦い続けた会津藩の籠城戦は、正式に幕を降ろしたのでした。 式が終わると、会津藩士たちはこの日の無念を忘れぬようにと、敷かれていた緋毛氈を次々と切り取り、その小片を懐中深く持ち帰ったのでした。のちにこの毛氈は「泣血氈」と呼ばれるようになり、この日のできごとを語り継ぐ貴重な「証」となりました。 明日よりは いづくの誰か ながむらん なれし御城に残す月影 開城前夜 山本八重子 (後に同志社大学創設者・新島襄の妻となる)
奥に天守を臨む。人斬り半次郎も涙を落とした、降伏式が行われた通りです。容保以下、会津藩士はさぞ無念だったことでしょう。
国指定史跡 昭和九年十二月二十八日指定 平成五年十月二十九日追加指定 史跡 若 松 城 跡 (甲賀町口門跡) 所在地 会津若松市栄町二七五番 この石垣は、郭外より若松城の郭内に入る門の石垣で、ここを界として内側を侍に屋敷とし、外側を町民の住居としていた。 郭内と郭外の間には土塁が築かれ、外濠がめぐらされていた様子が今もしのばれる。 当時、城下にはこのような門が十六カ所あり、特に、この甲賀町口は大手門として他の郭門より厳重な構えをとったとされている。 今回、「甲賀町口門跡」、「天寧寺町土塁」、「三の丸堀跡」の三カ所が国指定史跡若松城跡として追加指定を受けたものである。 平成七年三月 会津若松市教育委員会
唯一残る郭門の石垣です。戊辰戦争の激戦地で新政府軍はここを突破して鶴ヶ城に迫りました。
中央ポールの奥が飯盛山です。
移築された御三階は阿弥陀寺にあります。
阿弥陀寺に眠っています。
飯盛山の白虎隊自刃之址です。士中二番隊の無念を想起しました。資料館では隊士篠田儀三郎が自刃した刀が特別展示されていました。刀の先が折れていたのは杖代わりにしていたのだろうということで、隊士が疲労困憊していた様子が窺われました。
1796年に建立された、飯盛山にある二重構造の螺旋階段。国指定重要文化財。
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おそらく、八王子城の解説本の中で最も重要な一冊でしょう。
八王子城跡が現在のように整備されたのは、落城400年にあたる1990年以降のことです。本書の出版も同時期で、出版後に発見された遺構もあれば、今は目にすることのできない遺構も多数あります。言い換えると、1990年当時の八王子城跡の姿を記録した書であるとも言えます。八王子城に興味を持ってくださった方にはお薦めの一冊です。すでに廃刊となっていますので、古書店か図書館で探してください。
トンネル工事や台風・地震などにより、現在は失われてしまった石垣などの貴重な写真も多数掲載されていますが、白黒で小さいため分かり辛いのが残念。
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