お知らせ 詳細
楽々園の中にあります。
保存修理工事のため、天守南西側には、足場が組まれていました。工事は平成30年11月20日に完成予定です。
佐和口の向かって右翼に伸びるこの建物は、昭和35年にコンクリート造りで復元された開国記念館です。
真正面の多聞櫓の右端が切妻屋根で不自然に途切れているのが、お分かり頂けますでしょうか。多聞櫓の右に、かって2階二重の櫓門があった名残です。
とても雰囲気の良い有料駐車場です。
二の丸駐車場付近に見られます。
表御門跡付近の登り石垣です。残念ながら立入りが禁止されています。
大堀切に架かる廊下橋は、戦時には、落とすと伝わっているそうです。
意外と佐和山城が近いので、驚きました。
言い伝えでは、長浜城大手門を移築したものだそうです。
大堀切に面した壁は、防御のための工夫がなされています。
武器庫であったため、内部は、倉庫そのものです。
元々、鐘の丸にありましたが、城下に鐘の音が届かない箇所があるので、現在地に移転したそうです。
太鼓門前では、天然の岩と石垣とのコラボレーションを見ることが出来ます。
本丸から撮影しました。
とても珍しい造りです。どこのお城から移築したのでしょうか。
井戸が掘れなくて、仕方なしに作った用水池です。
天守への入口として、利用されています。
いつ見ても美しいです。
多聞櫓の脇にある出入口ですが、高さの関係で小学生団体様のみ利用出来ます。
さらに長持ちするように、工事中です。
西の丸から井戸曲輪を経て、黒門橋に行くことの出来る黒門山道は、通行止めでした。
天守よりさらに奥にあるためか、見学される方は、とても少なかったです。
内部は、ガランとしています。
搦め手でもご覧の通りの鉄壁の守りとなっています。西の丸三重櫓は、家老の木俣土佐が詰めていました。
西の丸の北側にある出曲輪です。形が鋭角になっているのが珍しいです。
西の丸から出曲輪への途中にあります。
右手に見える出曲輪は、馬出しの機能を併せ持っています。
出曲輪からさらに北にある観音台は、鳥の棲家となっており、糞で草木が白くなっております。
山崎曲輪には、かって家老である木俣土佐の屋敷がありました。写真奥の石垣が三重櫓台です。
城内から撮影しました。門扉は、後世のものです。
櫓台から撮影しました。門扉は、後世のモノです。
西の丸三重櫓へ向かう登り石垣です。とても、迫力があります。
城内側には、米蔵がありましたので、ここから米を搬入、搬出していたのでしょうか。
石垣がRを描いていますので、とても珍しいです。
米蔵跡には、梅が植えられて、梅林となっています。
内堀を清掃するため、または、密かに外部と連絡を取るための船着場です。
地形に沿って、腰巻き石垣も曲がっております。
当時、池の水は、外堀の油掛口付近(城東小学校裏手)の水源から引いた上水道を使っていたそうです。
御座之間から見た風景です。
手入れの者が御殿内に入らずに中庭に出入り出来るように空洞部分があります。
開いている部分には、馬の糞尿を溜める壺があります。
現在では21頭分の馬繋場などが残っております。
江戸時代には、さらに規模が大きかったそうです。
中堀近くの尾末町にあります。池田家は、伊賀出身で忍術を見込まれて、二代当主井伊直孝により召し抱えられました。屋敷跡はマンションとなっております。
階段部分は、雁木となっております。
藩主の隠居屋敷である楽々園の玄関棟です。とても立派です。
楽々園にあります。
玄宮園から撮影しました。よく見ると天守の多聞櫓に足場が組まれています。
玄宮園内にあります。
彦根市松原515番地にあります。年に2回、庭園を公開しているそうです。道路から撮影しました。
城町二丁目東交差点付近から撮影しました。
彦根市中央町7番33号山の湯の北東側にあります。写真に見える用水路や市道は、かっては外堀でした。
彦根市中央町にあります。現在、建物を保存修理中のため、良い写真を撮ることが出来ませんでした。
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