(説明) 鎌倉末期に後藤弾正が、戦国期に名倉奥平氏の本城といわれ、江戸初期に廃城となる。 奥三河地方の代表的な平山城である。
(説明) 大手門を防備するための四角形をした曲輪を枡形といい、ここでは初期の枡形構造がよく残されている。
(説明) 長い長方形をした堀底となって、敵の侵入を左右から攻撃できる。他に見られない独特の構造をしている。
(説明) 城の東側を守るための曲輪の一つで、居住できる広い面積がある。南側に大空堀と南帯曲輪、そして城外に通じる虎口が築かれている。
(説明) 東三の曲輪から東二の曲輪、そして搦手口と東腰曲輪に通じる重要な虎口となっている。
(説明) 本曲輪の東側を切岸で守るための曲輪で、南は本曲輪の大手口、北は搦手口につながり、敵を挟み撃ちにする構造となっている。
(説明) 本曲輪の南側を切岸で守る備え、北は大手口、西は腰曲輪と空堀につながり、南は数段の曲輪が連続する。
(説明) 本曲輪の南中央に築かれた出入口で、内枡形の構造をよく残している。
本曲輪に設置された案内板です。詰城の浜(はまん)城についても書かれています。
(説明) 本曲輪の北東に位置する出入口で、東二の曲輪と東腰曲輪につながる。
(説明) 大土塁下の空堀と本曲輪の東側を守る小規模の曲輪で、浜城登り口につながる。
(説明) 本曲輪の大土塁の北と西側を守るための空堀。
(説明) 城に続く尾根を分断するために築かれた空堀であるが、現在はほぼ消失している。
(説明) 標高八八一メートルの山頂に築かれた詰の城 距離約一六〇〇メートル 比高約一八〇メートル !体力と時間に余裕をもって登ってください。 ★要注意:この先案内板はありません。
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