城址推定地の「太尾見晴らしの丘公園」の北端にある「眺めの広場」からの眺望です。 眼下に鶴見川が流れています。
「牢尻」という地名は、大曽根砦の楼(物見櫓)があった事に由来しているという説があるそうです。 「太尾見晴らしの丘公園」の南端の送電線の鉄塔が建ち並ぶ場所です。 本城の小机城は、写真の右端方面になります。
山門の右脇に由来を記した石碑があります。(この写真には写っていません) 小机城主・笠原能登守康勝が「文殊堂」を建立し、その後六代を経た後の江戸時代(1643年)に龍松院が開山されたそうです。
龍松院の山門の右脇にあります。 ・開基:小机城二代目城主(所領拾萬石) 笠原能登守康勝公 ・縁起:笠原能登守が霊夢により文殊堂を建立。その後六代を経て開山した。 との記載があります。
龍松院本堂の右側にあります。 堂宇正面の門の外側には由来碑もあります。
富川家の祖先を敬う気持ちが伝わってきます。 墓碑は1761年の建立。 墓誌には『この地の大先祖は1500年、小机城の備えとして砦を築いた笠原平六義為(小机城二代目城主・笠原能登守康勝の弟)。 小田原攻めで北条氏の滅亡時に、義為の孫・筑後広信は難を避け身を隠し「富川 与左衛門」と称す。富川姓を最初に名乗った筑後広信を敬慕追悼する』旨が記されています。
龍松院裏手の山も推定地です。 木々のすぐ裏は住宅街が奥へと続いていますが、かなりの標高があります。
文殊堂は、小机城主・笠原康勝公が陣中常に胸に掛け戦った「不動尊像」と、主君・北条早雲公から拝領した「文殊菩薩像」を合祀して堂宇を建立。 この由来を聞いた徳川三代将軍家光により文殊堂領として九石余の御朱印を賜り、以来代々将軍家より下賜されたそうです。
一説によると、笠原一族が築城する際に城田弥三郎の屋敷を乗っ取ったと云われています。その後、怒った弥三郎はずっと笠原をつけ狙い夜陰に乗じて館を取り戻そうとしたが失敗し、「まこも池」のほとり(現・大曽根公園)で首をはねられたそうです。
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