岩尾城のある高台が千曲川へ突き出す根本に当たる場所に、今はこの交差点があります。この乗越状の地形は、岩尾城の惣構えに当たる堀切があったかも知れませんね。この交差点の左側が岩尾城域になります。右側は桃源院の墓所ですので、依田信蕃の陣が置かれた高台と思われます。
神社手前の畑の中にこの標識が立っています。この畑の中に三日月堀があり、丸馬出が有ったらしいです。発掘調査の後に埋め戻されていて、今はその形は判らなくなっています。
現在は神社の入口となっているこの場所は、丸馬出の片方の土橋であったわけですが、三日月堀が無くなっているので、土橋を実感できません。
依田信蕃の攻略を阻んだ三の郭切岸です。今ではその斜面は緩やかになっていますが、高さは3~4mあります。依田勢にとっては丸馬出背面に立ちはだかる土の壁に見えたでしょう。
本郭切岸に見られた石積みですが、どうも積み方が新しいような気がします・・・。もしかしたら近年、補強のために積まれたものかもしれません。
岩尾城は千曲川に向かって突き出した台地上に有るので、その突端に当たる西の郭は当然、見通しがききます。三角点が設置されるのは当然です。
岩尾城の台地が千曲川にぶつかる微高地が枇杷島と呼ばれています。岩尾城の背後を守るというよりは、地元民の避難場所、千曲川を渡って逃げる場所でしょうか。
岩尾城は何がダメって、車の置き場所が無いこと。少々離れていますがここ、桃源院は依田信蕃が岩尾城を攻める際に本陣を置いた場所と言われています。 今回はここの駐車場を使用させて頂きました。
岩尾城の大井勢と依田勢が激戦を繰り広げた大手台郭です。台地上の平地に切岸と土塁により段差ができています。ここに柵を立てて鉄砲や矢で応戦したのでしょう。
大手台郭の最前線にあたる土塁の跡が残っています。
大手台郭の向こうに三島社叢となっている岩尾城主要部があります。実際にはその手前に丸馬出郭が有って、こちらへ鉄砲を撃ちかけてくるわけです。
大手台郭より大手城外を見渡すと、手前に堀切(今は道路)があり、何段かの段郭が形成しているのが判ります。 奥の林のある高台に依田勢の本陣が置かれたわけです。
岩尾城は県の史跡ですが、このイラストは縄張り図とはならず、案内としては不十分です。とても残念です。
三島社の鳥居をくぐると目前に空堀があり、空堀に沿って右側に折れて参道が続きます。この途中に三の丸の標柱が建っていますが、ここは丸馬出郭であり、三の丸ではないと思われます。左側には空堀を挟んで三の郭の切岸が高いです。
依田信蕃、信行兄弟は攻軍の先頭に立ち丸馬出あるいは三の郭にて鉄砲に打たれ、信行は即死、信蕃も翌日、戦死しました。 三の郭前の空堀の底には、戦死したその場所を示すかのように、依田兄弟の供養塔が恨めしく三の郭の切岸を見上げています。
三島神社境内となっているこの場所には二の丸の標柱が立っていますが、場所的には三の郭に相当します。
三島神社社殿背後は一段高い平地となり、この場所が二の郭となります。 さらに奥、本郭との境には土塁が築かれています。石垣が見られますが、これは神社を作った時に作られたものでしょう。土塁があるということは、この手前に横堀が有ったかもしれませんが、現状は真っ平です。
二の郭~本郭の台地上はきれいに削平されて、その端はストンと切れ落ちています。台地は15m~20mの高さの絶壁であり、側方からの侵入はほぼ絶望的です。
岩尾城の本郭は奥行40m程度の長方形の平地です。周辺は二の郭との境に土塁が見られますが、そのほかはストンと斜面に切れ落ちています。
岩尾城本郭の背面は西の郭という広い郭が守っていますが、その境には2m程度の切岸があります。おそらくはこの下に堀切が有ったのでしょうが、現在はほぼ平らです。
左側が本郭、2m程度の切岸の下に横堀が有るような、無いような・・・。
岩尾城の西の郭は奥行で45mくらいの広い郭ですが、全面イバラの林で強行突破は、痛い目にあいます。
岩尾城西の郭の先には段郭が2段、形成されていて、その下は枇杷島と呼ばれる千曲川に面した平地に続きます。
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