七軒町バス停の近くの用水路は横須賀城の西側の外堀の跡です。
撰要寺の山門は横須賀城の不開門が移築されたものです。
大須賀氏の菩提寺である撰要寺には、初代横須賀城主大須賀康高と二代城主大須賀(松平)忠政の墓(宝篋印塔二基)があります。
西大手門の遺構は残っていませんが、生垣が桝形の形で植栽されています。
外堀跡の右側の県道は当時の仲土居道という堤防跡です。当時は入江ー仲土居道ー外堀の形で横須賀城の南側は守られていました。
「遠州横須賀城図」を使用した城址全体図です。一番南側で入江と城を区切っている堤が往時の仲土居道で、現在の県道にあたります。
二の丸城址入口にある「西の丸西斜面の石段」の説明板です。横須賀城の復元方法について詳細に記載されています。
西の丸の周りを取り囲む腰曲輪です。復元方法に沿って塀跡が刈り込んだサザンカの生垣で表現されています。
本丸南下の曲輪は、三方から攻撃を受けるようになっています。
復元方法に従って門跡はイヌツゲ、塀跡はサザンカの生垣で表現していることがわかります。
現存しない一ノ門跡付近から見た本丸です。
ニノ門跡は台座の石垣のみが残っていますが、横須賀城で一番大きな櫓門があったとのことです。
石垣の東側からは石垣の排水溝と思われる遺構が出現し、暗渠として復元したとのことです。危険防止のため穴の口を扁平な石で閉じているとのことです。
三日月池北側中段の曲輪に玉砂利が敷かれています。この場所に建屋があり玉砂利の部分がその建屋の土間にあたるとのことです。
内堀の名残りとのことです。
北の丸は地元の皆様の交遊の場所となっていました。北の丸には多くの数多くの石列遺構があります。
松尾山には北側の守りのため使用された多聞櫓の跡があります。周囲より1.7m高い櫓台の上に建てられたとのことです。
浅羽記念公園の近藤記念館に往時の地形図が展示されています。それを見ると横須賀城が細長い砂洲の上に築かれており、三方を入江に囲まれていたことがわかります。黄色の印が松尾山に当たります。
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