堤防の東端の跡が唯一残ってます。ここから西へ堤防が造られた。現在は史跡公園となってます。
資料館にある高松城水攻めの地図です。ガイドのおじさんが、お城好きで、当時の状況を熱く説明してくれました。
清水宗治の切腹後、秀吉が家臣に供養塔をつくらせ、その供養塔が首塚です。当初は石井山にあったようですが、明治になってこの本丸のあった場所に移されたようです。
清水宗治の切腹後、家臣が舟で城へ返して主君の遺体を城内に埋めたので、胴塚と言うようです。本丸北側の駐車場から、西へ50mほどのところにあり、周りは民間となってます。
備中高松城の周囲は沼地です。周囲とお城をつなぐ道は、戦になったとき攻められないように川船を並べ、その上に板を渡した程度の船橋だったと伝えられてます。
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