写真右下に見える通路に埋まっているのは【大手門跡】のプレートです。
発掘調査で門の東西に築かれた石垣の一部が確認されました。奥に天守風の郷土博物館が見えます。
鉄門前の「富山城址新旧比較図」によると、ちょうど珈琲店の建物が建っている幅が枡形門跡です。 鉄門入口までは徒歩5分程の距離です。
本来は角で折れた石垣に沿って左奥に水堀が伸びて、本丸と西之丸を分けていました。
鉄門通路面以外の石垣は、明治の初めに大きく積み直されているそうです。
写真は、鉄門西側の石垣です。 鉄門の両側の石垣上には、当初は二重櫓と多門櫓の建設が予定されていたが、建てられなかったそうです。
「何事もかはり はてたる世の中に 知らでや雪の 白くふるらん」 秀吉に降伏した年の冬に詠んだ歌です。 冬に来て見るとより一層心に染み入りそうです。 郷土博物館入口横にあります。
パンフと同じアングルです。 部材の一部に「嘉永二年酉 七月上旬出来」との墨書が発見された事から、富山城で唯一現存する千歳御殿の創建当初の建造物である事が分かったそうです。
(陰陽道において魔除けとされる)星形を本丸の南西隅に配置し、「裏鬼門を守る」という特別な役割を果たしていたそうです。 各城郭の鬼門避けに興味を持ちました。
写真の一番右と一番左の2つの鏡石は、一方の天地を逆にするともう一方と重なり、同じ石から割りとられた事がわかります。
一番下段の石材に四角い振り込みがあります。(下半分は地中に埋もれています。) 鉄門の土台となる木材を受ける石でしたが、積み直しにより現在の場所に移動しました。 パンフがなければ気付きませんでした。
写真右下に見える通路に埋まっているのは【大手門跡】のプレートです。 発掘調査で門の東西に築かれた石垣の一部が確認されました。奥に天守風の郷土博物館が見えます。
城址西側の通りの向かいにあります。 旧富山城内の「赤蔵跡」にあった学校に通っていたそうです。 【荒城の月】のモデルとなった城郭の1つとも言われているそうです。 【お正月】【雪やこんこん】は、富山での生活を偲んで作曲されたそうです。
船橋が木橋に架け変えられたのと同じ頃に二ノ丸が解体されている事から、橋の土台に転用されたと考えられているそうです。
郷土博物館(模擬天守)からは、松川沿いに西に徒歩6、7分程です。 城下町を再編した時に他から船橋をこの地に移したそうです。 その時は舟64艘を2条の鉄鎖で繋ぎその上に板を3~4枚敷いた幅の狭い橋だったそうです。 川に落ち溺死する人が多くその後板を2枚増やし幅を広げたそうです。
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