伝承では、石戸城の攻防が激しかったころ、ここに陣が敷かれたことによるとか、家臣の屋敷跡地だったとかとその由来を石戸城とからめています。石戸城は、北条・武田・上杉の戦国大名と関係をもった北足立郡内最大の城として室町から戦国時代にかけて機能していたので、城にまつわる様々なエピソードが今日まで伝わっています。 しかし、現在の城中地区に隣接する北の方角に、軍馬教練したと思われる「馬場」(「新編武蔵風土記稿」に記載された)地名が残ることや、城中の主要部分が石戸城同様に三方を谷に囲まれた要衝の地であること、また、阿観堂や武神とされる八幡社も近くに祀られているなどから、石戸城とは時代の異なる別の「館」が存在する可能性もあります。 市域の西側、高尾・荒井・石戸の荒川縁は、大宮大地の最高標高域(三十メートル台)でもあり、急崖をなしていることから、館や城を構えるには適地であったと言えます。 (現地案内板「城中坂について」 平成六年十一月吉日 北本市教育委員 より)
一の郭(写真左側)と二の郭(右側)を隔てる空堀(堀底道)。周辺は私有地のため、遺構の確認は制限があります。
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